「楽天家と厭世家 - 小此木啓吾」00年版ベスト・エッセイ集 から

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楽天家と厭世家 - 小此木啓吾」00年版ベスト・エッセイ集 から

厭世家というと、寒々としたどんよりと曇った空のもと、あまり太陽の明るい輝きに恵まれない、北欧の人々が浮かぶ。たとえば、コペンハーゲンの哲学者、ゼーレン・キルケゴールは『死に至る病』という本を書いた。生きていることはすべて死に向かって生きていることだ。いつも死を自覚して生きる。彼の哲学は、孤独で、抑うつ的だった。
ドイツの哲学者ショーペンハウアーもまた、この人生は人間の欲望によって生み出された幻影のごときものである。このかりそめの自分の欲望でつくり出された生への執着がどんなにはかないものであるか、むなしいものであるかを説いた。
キルケゴールショーペンハウアーも、人の愛に恵まれない人生だった。性格も、人嫌いで、孤独だった。しかし、憂愁の哲学は不思議に人をひきつける。誰にも厭世的な気持ちが潜んでいるためだと思う。むしろ人間には、厭世的になることで心の安らぎを得るような奇妙な心理がある。どうしてそうなのか?
人々の心には、何か救いがたい心の傷、喪失感や挫折感、あるいは自己嫌悪感が潜んでいる。生まれ育ちそのものがとても不幸で、親からも傷を与えられている。幼いときから、人生に楽しみや希望を抱くことができない。
誰でも人は、お父さん、お母さんはよいお父さん、よいお母さん、自分は祝福され、恵まれて生まれ育った子ども、そう思いたい。そう思うことで人生に明るい希望を思い描くことができる。
しかし、そういう楽天的な観念を思い描くことがとても困難な生まれ育ちの人も多い。人に対して信頼感が持てない。自分のことも好きじゃない。親のことも愛せない。憎んでいる。「どうして私は生まれてきたのか。生まれなければよかったんだ」、こんな恨みが心の中にうごめいている。深刻な厭世家はこんな心理に取りつかれている。
キルケゴールは、何か言い知れぬ罪の意識に脅かされていた。
ときによると、厳しいしつけや禁止の中で育った子どもは、自分が別に悪いことをしたわけではないのに、人間は欲望のかたまりで原罪を背負っている。生きていることがすでに罪なのだ。禁欲的な厳しいしつけを受ける。欲望を抱くだけでそれが罪の意識と結びつき、自分は悪い子だと思い込まされる。
キルケゴールの心には、この種の頑な厳しいキリスト教教育の産物のような、罪悪感を植えこまれていた。
極端な厭世家には、この種のとても厳しい親の心、精神分析で言う超自我が心の中にすみこんでいる。いつもいつも、おまえはだめだ、おまえが悪い、どうしておまえは生まれたんだ、こんな否定的なメッセージを植え込まれてしまった子どもがすみついている。
普通われわれは、どんなに厭世的になっても、やはりどこかで生きることを肯定して生きている。誰でも人は生きている限り実は楽天家なのだ。
これだけ世の中に悲しいことも、苦しいことも、不安も、恐怖も、種々の精神的苦痛が山積しているのに、なぜみんな生きているのか。それは、人間は本能的に楽天家だからだ。
誰でも人間は楽天家だ。明日もう死んでしまうなどと思ったら、とても楽しくは暮らせない。仮に核爆弾が東京に落ちてくるかもしれないと思っても、よほどぎりぎりにならないと、おそらくそんなことは起こらないだろう。万一そういうことが起こっても、自分だけは何とかなるんじゃないかとか、そういう自己中心的な楽天性を誰もが持っている。
実は、このおめでたい楽天性こそ生命力そのものの発露なのだ。一番先に自分がやられてしまうと思う人は、活力を発揮することはできない。楽天的であることそのことが貴重な心の財産であり、明るく生きるための根源なのだ。

フロイトは言っている。幼いときに母に高い評価を受けた息子は、その母の励ましや評価を支えに強い自信の持ち主になる。たしかにこのような楽天性は、まず最初、親子関係の中でつくり上げられる。
自分がおっぱいが欲しいと言えば、サッとお母さんはおっぱいをのませてくれる。寒いといえば暖かくしてくれる。つまり、世界はすべて自分のために存在している。母親をはじめいろいろな環境は、自分を助け支えてくれる、こういう思い込みが、人間の心を支えている。誰の心にもこのような根源的な楽天性がある。
暑さ寒さがあり、四季があり、毎年のように決まってお米がとれ、それをおいしく食べることができる。果物も季節に応じていろんなおいしいものを食べる。それが必ず毎年毎年めぐってくるという信頼感、これもまた自然への楽天的な感覚である。
人にも親切にすれば、きっと喜んでくれて、またそれに応えて相手も自分を愛してくれる。愛について、生きることについて、自然について、すべてについて、楽天的な信頼を持つことはとてもすばらしい。
生きているすべての人が大なり小なりこの種の楽天家である。しかし、楽天家の楽天性が高じて病的な躁になり、いつも楽天的でいることだけを求めて、苦痛のことや、傷つきや、悲しみを忘れ、現実認識を狂わせてまで楽天的であろうとすると、そこにさまざまな心の狂いが生じる。判断が甘くなり、都合の悪いことを無視する結果、現実適応がうまくいかなくなってしまう。この意味では、厭世家のほうがリアルで、冷静で、着実な仕事ができる。
たしかに厭世家のほうが現実を正確に認識している。キルケゴールのように、人間の生はかりそめのものであり、死のほうが絶対的真実である。だから、その死を常に見つめて生きていくという認識そのものは正確な認識である。
しかし、この知的な認識が、生を肯定する本能や、その欲望に由来する感情を越えてしまうところに厭世家の悲劇がある。
精神分析創始者フロイトは、この意味での厭世家のタイプに属した。彼は「死の本能論」を説き、人間は常に死に向かって生きているという説を立てた。そして、人生は生の本能と死の本能の闘いであると言う。
しかし、フロイト自身の個人生活は決して厭世的ではなかった。彼は家族にも恵まれ、精神分析という一つの学問を建設し発展させるためには、絶大な努力を積み重ねた。つまり生の肯定論者であった。
ただし、彼は知性の人であっただけに、人生における生老病死の苦については正確な認識を持っていた。だから、死についての認識や人生の苦についての認識を正確に抱きながら、しかも、どうやって楽天的に生きていくかが彼の課題になった。
そこで彼はこう語る。「断念の術を身につければ人生は結構楽しいものです」。つまり、何でも思うとおりになるという思い上がりを捨て、謙虚に、自分の分を心得て、できないこと、受け入れなければならない苦痛な現実をちゃんと認識し、受容することができるなら、結構楽しい生があると言うのだ。
この発想は、ともすると厭世的になりがちな現実認識と、すべてを肯定していこうとする楽天性をうまく調和させたメッセージだと思う。愛は憎しみを、生は死を常に伴う。知の認識は、愛と憎しみ、生と死はフィフティ・フィフティという。しかし、命ある私たちの情緒は、憎しみよりも愛が、死よりも生が1%でも10%でもよりまさっている。だから生はすばらしい。そうフロイトは語りたかったのだ。