「女体の最も隠微な部分のもっている真の意味 - 北原武夫」」ちくま文庫告白的女性論 から

 

「女体の最も隠微な部分のもっている真の意味 - 北原武夫」」ちくま文庫告白的女性論 から

ここで、この小論も、いよいよ一つの峠に達したようだ。というのは、男女の双方にとって、いつの世にも絶えぬ深い関心の的であり、男女を結ぶ最も隠微な核心でもあるあの性の問題について、もう厭でもこの辺で触れなければならなくなったからだ。他の面でもそうだが、特にこの方面のことについて、およそベテランたる資格を何一つ持ち合わさない僕にとって、この問題は何より苦手なのだが、ここでは専門的な解明が何も必要なのではなく、飽くまでも僕という一個人の体験のみが語られる場所だという一点に甘えて、ともかく筆を進めてゆこう。
その切っかけに、まずとり敢えず左の一文を読んで頂こう。多くの読者には、恐らく強烈な印象がまだ生々しく残っているはずである。
「……ココデ僕ハ、イヨイヨ彼女ノ忌避ニ触レル一点ヲ発[アバ]カネバナラナイガ、彼女ニハ彼女自身全ク気付イテイナイトコロノ或ル独得ナ長所ガアル。僕ガモシ過去ニ、彼女以外ノ種々ノ女ト交渉ヲ持ッタ経験ガナカッタナラバ、彼女ダケニ備ワッテイルアノ長所ヲ長所ト知ラズニイルデモアロウガ、若カリシ頃ニ遊ビヲシタ事ノアル僕ハ、彼女ガ多クノ女性ノ中デモ極メテ稀ニシカナイ器具ノ所有者デアル事ヲ知ッテイル。彼女ガモシ昔ノ島原ノヨウナ妓楼ニ売ラレテイタトシタラ、必ズヤ世間ノ評判ニナリ、無数ノ嫖客ガ競ッテ彼女ノ周囲ニ集マリ、天下ノ男子ハ悉ク彼女ニ悩殺サレタカモ知レナイ。……」
周知のように、これは谷崎潤一郎の有名な近作『鍵』の中で、主人公の某大学教授が、その妻の肉体についてひそかに日記の中に書いている文句の一節なのだが、ここでやや誇張的な雰囲気をもって語られている、男性にとっては忽[ゆるがせ]にできないある重大な事柄が、単に小説であるための虚構に過ぎないのか、あるいは実際の世間で、現実の女性の肉体の上にしばしば見られる偽りのない真実なのか、この小説を読みながらも大いに迷った読者が、決して少なくはなかったろうと僕は思う。現に、もしこんなようなことが事実だとしたら男性としてはそうのんきな顔をしてはいられないというような面持で、その真実か否かを真剣に僕に問い訊した青年は一、二に止まらなかったし、こうして僕自身にしても、実に永い間男性間における一種深刻な噂話として耳にして来たこの種のことが、解剖学的な意味でも真実だということを知ったのは、実はそう遠い以前のことではない。それも、無論、数多くの女性にいちいちじかに当って確かめるような、そんな怖るべき経験によって知ったのではない。たった一冊の、その方面のある学者の著作によって知ったのである。しかし、ここでついでに告白して置くと、その著作は、(それは終戦直後アメリカでベスト・セラーになった、あるアメリカの学者の著作なのだが)僕などにまるで考えも及ばなかった、もう一つの意外なことを、僕に教えてくれた。というのは、彼は、その著書の中で、その点についての女性の肉体の構造上の精妙さを断乎として強調すると同時に、それに対応する男性のその部分の構造が、先天的にいかに粗雑であるかについても、解剖学的に強調していたからだ。その書の中で、彼が結論的に言っているのは、次のようなことであった。
「要するに、種族の如何を問わず、地球上のありとあらゆる女性のその隠密な部分の構造は、ことごとくDIVERSE(個々別々)であって、一人として同じものはなく、これに反し、世界中のあらゆる男性のその部分の構造は、民族の如何を問わず、概してUNIFORM(均一)であり、女性に見られるような多様性は見られないのである。」
ことに当たってみると、そんな概念的知識は何処かにケシ飛んでしまうので、僕等男性の持っている最も雄的な部分が、世界中のあらゆる男性と均一だなどという知識は、実際にはどうでもいいようなものだが、それと対比的に強調されている、女性のあの最も隠微で神秘的な部分が、地球上に生きている女性の数と同じ数ほど無限に種類のあるものだと、学問的にもはっきりと知らされたことは、僕にもその時一つの驚異であったが、多くの男性諸君にもそうなのではないだろうか。そんなに種類の豊富なものが、男性の眼前にあるとすると、それをいちいち経験して確かめるのは男性にとって大変な仕事だと、そんな妙なことを言い出すつもりはないが、それほど多種類だということは、とりも直さず、その構造上の優劣の差もそれほど無限にあることを意味しており、従って性生活上で男性が女性から得られる歓びの深さや快美感の強さにも、当然それと同じく無限の差違があるわけであり、しかもそういうものとの出会いは、すべて運不運という、事前の選択を許されぬ偶然の支配によるのだという事情の不可抗性は、(何も男女間の深い融和の根本がすべてその点のみに懸かっているとは言えないまでも)ありとあらゆる男性にとって、何と言っても異様に神経にひっかかる、等閑に付し難い関心事に違いないからだ。
この驚くべき(?)事実を知った時、僕にすぐ思い出されたのは、精力も旺盛なら好奇心も旺盛な、僕等男性のうちでも最も雄的な一部の男性が、はっきりとその意味を広言して実行している、いわゆる悲願何人斬り云々という、純粋に女性のその部分の鑑賞のみを目的とした、あの誰憚からぬ奇妙な行為のことだった。そういう心理は、潜在的にはどんな男性の裡にも潜んでいるので、(無論こういう僕だって例外ではない)正面からそれを嫌悪したり忌避したりする資格は僕にはないが、しかし、そうは言っても、女性の肉体の裡に慎重に隠されている極上の美味を狙って、いつかはそれに出会いはしないかと忍耐強く精力的な渉猟をつづけている、この種の純粋に即物的な女性遍歴の仕事には、同性のやっていることながら、どうにも敵わないというような何となく圧迫的な感じを抱かされて、正直なところ僕などはただ遠くから見守っているしかなかった。好奇心はもともと充分にあり、愛し合うことのできた相手の女性の上に、もしそういうものを発見できたらという、ひそかな幸運を待ち望む気持は充分に強かったが、それのみを専一に探し求める果敢な勇気は、やはり僕などにはどうにも持ち得なかったからだ。が、この果敢な同性の誰憚らぬ行為には、その見かけの浅ましさの蔭に、実は確乎たる科学的真実の裏づけがあり、その意味では、この種の行為が、決して一部の特殊な男性の単なる頽廃的な行為ではなく、美味なものの存在を本能的に嗅ぎつけた人間という意識的な動物の行為としては、至極当然なものだと知らされたことは、だからそういう僕には、何と言っても一つの驚異だったのである。
事実僕は解剖学的な意味でもこのことには確乎とした裏づけのあることを知らされた時、率直に告白すると、自分自身は他の多くの男性とそう違わない、ごくあり来たりで均一なものの持主であることを忘れ、こうしてはいられないぞというような焦燥を覚えると同時に、造物主の悪意に引っかかって、まンまと一杯喰わされたような、妙な苛立ちを感じたものだ。この種の焦燥や苛立ちは、柔順[おとな]しく控え目にしていると美味いものは食えないぞという、稀少価値をもつ珍奇なものの前で同列に立たされた多くの人間が味わう、あのソワソワとした浅ましい焦燥と全く同種類のものなので、大っぴらにここに書いたりするのは実は大いに気が引けるのだが、こっちの持物は全くのレディ・メイドで何の特色もないのに引き替え、あちらの持物だけ、言うに言えぬ優雅な最高級品から言うには足らぬ粗悪品に至るまで、無限に優劣の差があるという皮肉な事情の前では、元来が追い求める性である僕等男性が、そんな気持に落ちこむのも、半ば不可抗的な事柄ではないのだろうか。

ここで、ゆくりなくも僕に思い出されるのは、二十年の歳月を隔てて知った、その点での印象の全く対照的だった、二人の女性のことだ。その一人は、僕がまだひどく年若い頃、雪と女で名高い北国のある町で、文字通り青春の濫費としか言いようのない、眩暈的な日々を送っている最中に知った芸者なのだが、知り合って半年あまりののちはじめて一夜を共にした時、あとになって、彼女の口から、彼女のその部分については既に一種の定評があり、彼女自身それを誇りとしていることを告げ知らされ、そこで改めてその点について、問い訊されて、言いようのない羞恥を僕は味わったことがある。文学好きな若者の例に洩れず、僕はその時、濫読したさまざま書物や、その濫読に酷似したせっかちな青春の濫費によって、女性の肉体の甘美さに何種類かの段階があることは既にわきまえていたが「定評」があるというような言葉で誇示されたその女の肉体については、明瞭な言葉でそれに答えられるほどの確証を、僕は自分の力では見出すことができなかったからだ。数度のそういう夜を持った後もそうで、間もなく、水と油が離れるようにして、僕は自然にその女性から遠ざかってしまったが、二十年の年月を経て知ったもう一人の女性は、これはまたあまりにもこの前者と違い過ぎていた。
一つには、その時、彼女の方に、ひどく世間の眼を憚からなければならない事情があり、その一夜をつくるのも容易ではなかった気分的な引け目と、二人ばかり子供を産んで、ほんの少し若さの絶頂を通り過ぎた年齢にあることを、彼女の方だけでひどく気にしていたという理由があったのだが、ようやくある場所でその一夜を迎えて、もうあとには切実な一行為しかない場所に臨んだ時、彼女は突然、身を斬られるような切なそうな表情で、自身の肉体についてのかねてからの強い卑下を口にし、その点についての相手の寛容を願うような言葉を、切れ切れに言い出したのである。その一夜が終ってからも、それから、最初からの彼女の決意通り、なるべく早く別れることを前提にして、その後ほんの一、二度ただ会っているだけの間も、彼女自身の言葉を裏切った、その夜の彼女の肉身の実体についての僕の偽らぬ言葉を、彼女は容易に信じようとはしないようだった。誰からの暗示で、またどういう理由から、彼女が固くそう思いこんでしまったのか、今でも僕には不明だが、要するにその夜僕が知ったのは、心情のつつましさの中で深く眠っていた、自己抑制という弾力のよく利いた、謙虚な肉体のもつ、香ばしい羞恥に包まれたある得難い感銘だった。
この全く相反した二つの経験が、今でも僕の記憶のうちに強く残っているので、この点については、実は僕は、今では一層、次のような強い疑問を持たざろう得ないのだ。つまり、アメリカの学者の書いている、女性の肉体のもつ最も女性的なその部分についての指摘は、解剖学的には確かに真実に違いないだろうが、人間にとって最も人間的なその実際の場面で、人間的情感を抜きにしたそういう解剖学的真実の働く余地が、一体どれだけあるのだろうかと。それには、例えば、この点についての女性側の認識が、男性の僕等が等しく抱いているそれとは、実に微妙なところですれ違っているのを見てもよく分る。その何よりの大きな相違点は、追い求める側の男性にとっては、その種のことが、実にしばしば、隠密な空想の中で思い描く大きな目標となることができても、求められる側の女性にとっては、それが彼女の愛情にとってはもとより、彼女の人格にとっても少しも関係のない、全くの無縁の事柄だという点である。

この点でまず、男性と女性とは、心理的というよりは人間的な意味で大きくすれ違うが、更にそこには、たとえその点について誇らかな自覚を女性が男性から与えられたとしても、誇るというその言葉が正当に意味している感情の上では、その種の自覚はおよそ何の役にも立たないという、もう一つの根本的な事情がある。何故なら、本来愛の情熱となって燃え上る時にのみ意味をもつそれぞれの性本能が、ここではただ食欲としての扱いしか受けておらず、従って相互の人間関係が、人間的なものを全く無視された、単に味わうものと味あわれるものとの関係に置き換えられているからだ。その点を売物にしているある種の商売女や、(僕が若年の時に出会った芸者がまさしくそうだが)その点を利器として生きている娼婦的な女性以外、自身の肉体がその意味での優秀品であることを誇りとする女性の心理なぞ、通常の状態では恐らく誰にも考えることができまい。なおその上、他のこととは異なり、このことだけは、どんな女性でも、男性から知らされる以外には単独では知ることができず、まして自覚的に知ることなぞは到底不可能だという事情、言い換えれば、そのことについて吟味し玩味し価値づける資格は一切男性側にあり、女性としてはただそれを受け入れるしかないという、自主的な認識の少しも入る余地のないこの一方的な事情が、更にそれに加わることを考えれば、何よりも自覚から成り立つ矜持の感情というものが、このことに関する限り、正常な感受性をもつ女性の胸には到底生まれ出ないことは、誰の眼にも明らかであろう。
この意味で、かつてひどく年若かった頃、自分では熱烈に惚れこんだと信じ切っていた一人の芸者の口から、彼女の誇りとしている部分についての賞美の言葉を、逆に強請された時のことを、改めてここで思い起こしてみると、その時僕の感じたある異様な感じが、一体何に対してのものだったか、今は僕にも実によく分る。そしてそれはまた、その後今日までの永い間、少なからぬ男性の口から、その愛人や情人たちの、その部分の天性の美質について、ようやく探し求めていたものに打つかったというような弾んだ語調で、かなり露骨に、そしていかにも満足げに語られるのを耳にした時など、思わず僕の上に覆いかぶさった妙に陰鬱な、浮かぬ心持をも、一層よく僕に理解させる。つまり、前者の場合は、本来自覚的には知ることのできないそんな事柄について、それほど彼女が自信を持ったということは、どれほど信用できるのか分らぬ何人かの男の言葉を、そのまま彼女が鵜呑みにしたからに他ならぬという点で、その彼女のいかにもいい気な自己陶酔[ナルシズム]に僕が嫌悪を感じたのに他ならないし、後者の場合は、彼等の情人たちの天性備えているものが、それほど稀に見るものだということが仮に疑いないとしても、単に美味なものとして自身が食欲的に扱われていることに、当の情人たちがどれほど満足しているかについては、彼等自身少しも関知していないという点で、享楽人とし

てあまりに浅薄な彼等の自己中心主義[ペルソナリズム]に、同性としての言いようのない不満と嫌悪を僕が覚えさせられたに他ならない。
前者の場合はただバカバカしいし、後者の場合は浅ましいの一語に尽きるが、ただこの両者の場合ともここで明瞭に語っていることは、アメリカの学者の指摘したあの解剖学的真実は、科学的な正確さでは間違いのない真実だとしても、それが人間にとって最も人間的な現実の性行為の上では、結局夢想的な役目しか果していないということだ。女性のもつ天性のその部分に、無限に優劣の段階があることを学問的に明示されたことは、人生の美食家である享楽人や漁色家にとっては、眩暈に値するほどの大きな夢を与えられたことを意味しているだろうが、相手の女性側にとっては、そのことに愛情の問題が密接に浸透し、愛を実証し愛を分ち合う切実な行為の上での、一層の快美感や美味として認識されない限り、その部分のみに対する男性の礼讚などは、単に男性から押しつけられた無用で独善的な褒賞の意味しかあるまい。この点に関してほど、性行為に対して抱く男性と女性の関心の質的な相違を、まざまざと物語っているものはないが、それは同時に、次のこともはっきりと証拠立てている。即ち、女性の肉体のうち最も女性的なその部分に対して、ありとある男性の抱いている根強くて深刻な関心は、あの処女性ということに対すると同様、一見きわめて現実的なことのようでいながら、実は美味な餌に対して敏感な雄としての男性のもつ、全く一方的な夢想境に過ぎないということを。

僕は、多くの男性諸君に比して、この僕という男がどの程度の好色家であるか、実のところよく分らない。かなり以前までは、恐らくかなりの程度の好色家ではないのかと、ひそかに恥じもし懼れてもいたのだが、どうやらそれは小心のあまりの一種の過信ではないのかと、思うようになった。それというのも、実はこのアメリカの学者の著書に接したからなので、特にその中の、今挙げた女性の肉体の生理的構造に関する一章を読み、僕にとっては学問的な意味での驚きでもあったその新しい発見を知って、僕の裡に多年息づいていた、かなり強度の好色的なものが、かえって一気にしぼんでしまったのを感じたからだ。女性の肉体のその部分の構造に、何種類かの優劣の段階があるらしいことは、前にも書いたように若年の時から僕は漠然として心得ていたが、それがそれほど無限に多種類であり、しかもそのことには疑う余地のない学問的な裏づけもあることを知った途端、僕の好色さの中心部を支えていたかなり濃厚な夢の部分が、急に白々としてしまったのである。そんなに無限に種類のあるものに、いちいち手を出すのは不可能だと、何もその点だけに萎縮してしまったわけではないが、ともかく夢が醒めてしまったのだ。他の多くの精気に満ちた男性なら、恐らくかえって一層奮い立って勇躍するに違いない、この好奇心をそそり立てる誘惑的な新発見が、僕にとっては夢を醒ます原因になったということは、取りも直さず、僕の小心さを証明すると共に、僕が実際にはそれほど貪婪な好色家ではなかったことを証明しているが、しかし、同時にそれは、この種のことが、結局男性にとっては、何処かに厳存していていつかは会えるかも知れない、確乎たる一つの実在だというより、いつも眼前にあるように思われて、彼の性的な好奇心や冒険心を駆り立ててやまない一種の夢想境にしか過ぎないことをも、証拠立てているのではないだろうか。
夢は、それがいつまで夢であることに、越したことはない。僕が眼ざめた場所で、諸君が一層深く夢みることに、僕はだから少しも文句をつけようとは思わないが、この夢を徹底的に実現するためには、相手の女性の本質に関係なく、まして愛情とも関係のない、全くの運不運という冷酷な不可抗的な、白々とした現実と闘わなければならないことを、言い換えれば、恥をも何をも恐れぬ純乎たる漁色家という、一種の非人間にならなければならないことを、諸君はここではっきり覚悟しなければなるまい。僕はもう喜んでその戦線からは脱落したが、この種の世にも奇怪で不毛な闘い、果して諸君のうちの何人が堪えられるであろうか。