「『告白的女性論-北原武夫』の解説 - 香山リカ」ちくま文庫



「『告白的女性論-北原武夫』の解説 - 香山リカちくま文庫

副題:「気恥ずかしさ」という感じ

北原武夫といえば、私にとっては何といっても“宇野千代の夫”という印象が強い。しかもたいへん失礼ながら、“夫のひとり”だ。周知のように宇野千代は同棲や結婚、離婚を繰り返しているが、北原との結婚生活は昭和十四年から三十九年であるから、宇野の人生の中ではひとりの男性との関係の最長記録と言ってよいのではないか。
しかも、三十二歳の北原と結婚したとき宇野は四十二歳。まさに現在、もっとも旬な“年下クンとのアラフォー婚”だ。そのときのことを、宇野は『生きていく私』に書いている。
「北原武夫と私とは、年齢が十歳も違っていた。私が四十二歳のとき、北原は三十二歳であった。この反対のことは普通であっても、女の方が十歳も齢上、と言うことは、言うまでもなく、大変なことである。それでもなお、平気で、北原と結婚出来ると考えていたとは、何と言うことであろう。実を言うと私は、この年齢のことなど、一度として考えたことはなかった。それほど、北原を愛するのに急であった。いや、愛するのではない。愛している、と自分自身が思い込んでいるのに急だった。」
自分で望んで結婚したのに「何ということであろう」と他人事のように驚いたり、「愛している、と自分自身が思い込んで」などと平気で分析して見せたりする無邪気さは、まさに宇野千代の面目躍如。とはいえ、今でこそ旬だが当時は非常識と思われた結婚に踏み切らされ、離婚後、十年もしないで六十代で世を去ることになった北原武夫(ちなみに宇野は離婚後、三十年以上も存命)とはどのような人物なのか、またその女性観、結婚観はいかなるものか、とずっと気になっていたことは確かだ。
そして今回、北原が昭和三十三年、まさに宇野との結婚のまっただ中で記したこの『告白的女性論』が再び文庫で読めることになった。著者が女性なるものに関していったいいかなる思いを抱いているのか、いやが上にも興味が高まる。
一読してまず、私は一人の女性として、自分がなんだか気恥ずかしくなってしまった。
それは、著者が女性というものを、あるときは想像の彼方にあるような神秘的な存在として、またあるときは地にしっかり根を生やした現実的な存在として、何とかその実態を解明しようとして、あらゆる角度から丹念に観察、分析を試みているからだ。
たとえば北原が、かつて悪女めいて振る舞っていた女性と彼女が結婚した後に再会して、その世俗化した姿に次のように失望する箇所がある。
「僕が文学青年的な頭でひそかに空想していた悪の香りや背徳の雰囲気などはもとより、少しでもそういう世界に突き入ろうとするような素振りは、ほんのこれっぽっちも現在の彼女には見出せなかったからだ。」
著者は「今度という今度は真底からガッカリ」したとまで言うから、それはたしかに気の毒なことではあるが、そもそも「悪の香り」や「背徳の雰囲気」といったイメージをその女性に見出そうとしていたのは、著者自身なのだ。彼女のほうは、独身時代には自分の感情のおもむくままに心変わりをしたりし、それが結婚して年齢を重ねる中でそれなりに落ち着いた、というごく自然な変化を遂げてまでだ。おそらく「なぜ君は文学的でなくなったのか」などと責めてみたところで、彼女自身は「私は最初から文学なんかじゃなくて、その場その場を一生懸命生きているひとりの女よ」としか答えようがないだろう。
また著者は、デートの終盤、バスが来たよと告げても「返事もしなければ、別の方角に向けたその顔を、ほんの少しもこっちに向けようともしない」女性を見て、「ああ、この女は、もう俺だ好きじゃアなくなったんだな」と直感的に気づいた。そしてたしかにその数日後、女性から交際を考え直したいといった手紙が届いたのを見て、自分の言葉に顔を向けようともしない「人間の肉体というものの素直さ」を思い知った、と言うのだ。
しかし、その女性にしても、ちょっと顔を向けなかったことをそこまで深読みされると、戸惑ってしまうのではないだろうか。「そう?バスが来た、なんて聴こえなかったけれど……。それにあの時点では、まだ別れようとも決めてなかったし」というように。
私が感じた「気恥ずかしさ」の原因も、このあたりにある。つまり、北原武夫ほどの人にこれほどの文学的空想や熟考を要求したり、また失望や混乱に陥れたりするほど、女性は巨大で深遠な存在なのだろうか、ということだ。
少なくとも私はそうではない。もっと表面的に刹那的に、その場その場を生きているだけだ。「どう振る舞えば損をしないか」といった若干の浅知恵を働かし、言葉や表情を修飾するくらいのことはするが、それにしてもそれほど深い哲学に基づいてのことではない。いろいろな仮定、比喩を重ねられれば重ねられるほど、「いや、そんなにむずかしく考えていただく必要はないですよ」と恐縮し、なんだか肩身が狭いような気分になってしまうのだ。
とはいえ、宇野千代との結婚生活も二十年近くなった時点においても、女性をここまで謎めいた魅力的な存在と考えてその謎解きにチャレンジしようとする北原武夫その人は、女性から見るとおそらく非常にチャーミングな男性だったのではないだろうか。
最終章にあるように、男性である北原は「女性と男性のどちらが真の愛の地点に近いか」と大真面目に考え続け、女性である宇野は、自分の過去の振る舞いに関して「何と言うことであろう」のひとことで済ましてしまう。強いて言えば、これこそ男と女の違い、ということになろうか。しかしだからこそ、ふたりは長きにわたって夫婦でいられたのかもしれない、などと別の“文学的空想”もそこから広がるのである。