「やることがごちゃごちゃ多すぎてわからない - 門賀美央子」死に方がわからない から

 

「やることがごちゃごちゃ多すぎてわからない - 門賀美央子」死に方がわからない から


さて、残りは次の通りだ。
1、ペットや観葉植物の譲渡
2、必要な相手への訃報連絡
3、SNSなどのアカウント停止

三つ目の「アカウント停止」は知らぬ顔の半兵衛でお茶を濁せる。ただ、これも悪用の可能性はある。できれば消しておくに越したことはない。
死後もネット上になんらかの存在感を遺したいのであれば、FacebookInstagramなどが提供する「追悼アカウント」制度を利用すればいい。もちろん、これも死後、申請してくれる、誰かが必要なわけだが。
二つ目の訃報連絡も、人としての礼節を考えると、した方がいいのだろうが、必須とまではいえない。黙ってそっと世界から消えていくのも悪くはない、かもしれない。なんか、カビの生えた男の美学的な感じで。
だが、一つ目。
「ペットや観葉植物の譲渡」
これだけは絶対になんらかの手当てをしておく必要がある。特に観葉植物。ペットは比較的後を心配する人が多いが、植物にまで気が回らない人が多い。しかし、植物だって命だ。もし、観葉植物によって心が慰められていたのであれば、それに報いるのが人の道だ。
ペットにしても、植物にしても、一番安心なのはやはり信用のおける人に託すことである。
植物の場合、形見分けとして引き取ってもらえる確率は高いと思われる。
だが、ペットとなると少々難しい。一旦引き受ければ、手間も経済的負担もかかる。また、動物を飼うのにためらいがない人の家には、すでに先住ペットがいることが多い。遺されたうちの子と、お願いした相手の先住ペットとの相性が良ければ問題なかろうが、ここで躓[つまず]くケースも少なくない。それに、そもそも、引き取ってくれた人だっていつ死ぬかわからないのだ。老齢になれば、信頼できる人も自分と変わらぬぐらい先が知れている可能性が高い。
となると、この問題ばかりは「信用できる知人」より「何らかの団体/機関」に頼った方がいいのかもしれない。
実は近年、高齢化及び独居化の加速によってこの手のペット問題が社会に広く認知されるようになり、飼い主を失ったペットを引き取って新しい家族を探してくれるサービスが盛んになってきている。
一般的には「飼育支援サービス」などと呼ばれており、公益法人NPO法人などの民間団体がサービスを提供している。運営団体は様々だが、獣医師による団体などもあるので、今すでにペットを飼っているならば一度「飼育支援サービス 高齢者」「飼育支援サービス 一人暮らし」などのキーワードでネット検索してみるといいかと思う。複数の団体が見つかるだろう。それらを一つ一つ丁寧に見ていって、「私とうちの子」に適したサービスがないか探してみるといい。高齢者でなくとも急死のリスクは誰にでもある。もし「私が死んだら、うちの子は路頭に迷う」という心配があるなら、早急にアクセスすべきだ。
ただし、これらのサービスも基本的には有料である。つまり、経済力がなければ利用できない。ペットを飼うのも金次第、なのだ。
だが、こればかりは致し方なし、と私は思う。
ペットを飼うとは命を預かることだ。たとえ虫であっても、命を癒しや娯楽のために自己の領域に繋ぎ止めるのであれば、そのコストは負担しなければならない。負担できないならば、残念ながら飼う資格はない。
近年、犬猫の保護団体が里親の条件を厳しくするあまり、単身者や高齢者、低所得者が引き取りを希望しても拒絶されることが増え、SNSなどではやりすぎではないかとの声があがっている。
里親になるつもりのない私は議論を横目で眺めているだけだが、たしかに一部の保護団体にエキセントリックとすら感じる振る舞いがあったのは事実だと思う。だが、基本的には「最後まで責任を果たす能力がない人間は飼うべきではない」という主張は正しいと言わざるを得ない。

私の家族は揃いも揃って大の動物好きで、二十年ほどの間に犬は一頭、猫は六匹飼った。鳥類、魚類も数多くいた。
猫のうち一匹は近所で貰ってきた猫、二匹は拾った猫、あとの三匹は自分で乗り込んできた猫たちである。乗り込んできたとはこれ如何に、と思うかもしれないが、時々いるのだ。「今日からここの猫になるので、よろしく」と自分で家を選んで来る猫が。おまけに通い猫もいたりして、常時五、六匹は身の回りに猫がいるという時期が長かった。
そんなわけで、ペットがくれる心の潤いや癒しがいかに精神的安定にプラスになるかはよくわかっている。だが、同時に厄介事が増えることも熟知している。毎日の餌やりや糞尿の始末は言わずもがな、病気や生殖コントロールにかかる金銭負担は半端ではない。おまけに家は汚れやすくなるし、臭くもなる。
さらに人の体調に悪影響を与えることもある。私の場合、私が一番可愛がり、また私にもっとも懐いていた猫にだけ強いアレルギー反応が出るようになった。その子が寄ってくるとひどい花粉症のような症状が現れ、舐められるとそこだけ発疹が出るのである。他の猫は大丈夫なのに、その子だけだ。
これはつらかった。アレルギーが起こるようになったのは実家を離れた後だったので、毎日の生活に影響が出たわけではなかったが、もしこれが実家住みだったらかなり困ったことになっただろう。なにせ、相思相愛の仲なのだ。子猫の時に拾った子なので、あの子は私の前ではいくつになっても子猫ちゃんだったし、私だってどれだけしんどいことがあってもあの子がいれば安らげた。それでも、私の免疫反応は彼から出るなんらかの物質をアレルゲンと判断して、拒否する。何の試練だ、という話である。
そんなこんなで、コロナ禍において急激にペットを飼う人が増えたというニュースを見た時には、眉をひそめざるを得なかった。そのうち、何割がペットはただ可愛いだけではすまない存在であることを理解していたのだろうか。
かく言う私は一人暮らしになってから、ペットを飼っていない。人後に落ちない猫好きなので、飼うとしたら猫だが、保護猫を勧められても今のところ謝絶している。もし、自ら乗り込んでくる子がいたら共に暮らすのはやぶさかではないが、そうでない限り、自分から積極的に動くつもりはない。仕事柄遠方での連泊取材も発生するという現実的な事情もあるが、もう一つその気になれない理由がある。
ここまでうるさく室内飼いが求められるようになった世の中では、飼う気がしないのだ。
誤解しないでほしいのだが、現代社会における室内飼いの必要性は理解している。部屋の中に閉じ込めていたら、身の安全は保障されるだろう。長生きの確率もあがる。
だが、それが猫の幸せに直結しているのかどうか。

動物の幸せなんて、動物本人に聞いてみないとわからない。おまけに個体ごとに答えは違うことだってあるはずだ。たとえば、同じライオンでも檻の中でのんびり暮らせる方がいいのもいれば、サバンナで命がけの狩りをしたいのもいるだろう。ちなみに今実家にいる猫は完全室内飼いの一匹だけだが、時折脱走しようとする。元ノラなので血が騒ぐのだろう。
人間がいくら「その子のため」を考えても、実際に「その子」が幸せかどうかなんて決してわからない。外に出たい一心で多大なストレスを抱えていた子が、飛び出した途端交通事故で死んでしまったとして、その子は果たして不幸だったのだろうか。一瞬でも自由な空気に触れて死んでいくのと、ずっと外への渇望を抱えたままただ徒[いたずら]に長い時を生きるのと、どちらが幸せか。 
何のことはない、この問いはそのまま自分自身の人生観に返ってくる。
幸せという、定義できそうでなかなかできない概念をとことん突き詰めていくと、結局は「本人の納得度」以外に測る術はない。
もちろん、ペットがどう思っているかなんて、誰にもわからない。彼らが幸福をどう捉えているのかもわからない。喜怒哀楽がある以上、幸せに似たなんらかの感覚はあるだろうとは想像できるが、それらは極めて刹那的なものであって、人間の時間スケールで考える小理屈には意味がない、かもしれない。つまり、私の「ネコチャンを閉じ込めるなんてカワイソウ」も、当の猫にとってはどうでもいい、つまらない感傷である確率の方が高いのだ。
けれども、私はどうしても自分に置き換えてしまう。
著しく自己決定権を狭められた状態での長生きが、生物としての幸せなのだろうか、と。
一般的に死は究極の不幸と考えられている。私だって誰かが亡くなれば悲しいし、お気の毒にと素直に思う。
だが、死という現象それそのものが不幸なわけでは決してない。
私たちは、漠然と「もっと生きていればやりたいことができて、楽しい体験もできただろうに」などと考えるから死即不幸と捉えてしまう。死は、それ以降なにも体験できない、つまり究極の機会損失だからだ。
しかし、言うまでまなくなく、実際には生きているだけでは幸せになれない。
長生きした末にとんでまない不幸に遭遇することたってある。「生きていればきっといいことがあるよ」が真なのと同様、「生きていればきっと最悪なことがあるよ」もまた真なのだ。
結局、終わりよければ全て良し、と思える状態に持っていけて、初めて「幸せな人生」は完成するのだろう。そして、「全て良し」は「トータルでの納得感」で決まるはずだ。単純に考えれば、持ち時間が長ければ長いほど体験できることや達成できることが増える。しかし、行動が制限されていれば、ただ時間だけが過ぎ、気がつけば老いていたという事態になりかねない。
もし、それで満足できる気性であれば問題ないが、そうでなければ……
選べない状態で長生きするのが果たして幸せと呼べるのか。

死を意識すればするほど、この話が頭の中をグルグルし始める。
死に方を探す旅は、納得できる人生を探す旅でもあるのだろう。
とにかく、死に対する現実的な手続きはある程度調べがついた。それによって、私自身かなり不安感が薄れてきた感がある。あとは、理想的な死を迎えるまでどう生きるかだ。