「近年の「雨のことば」について - 倉嶋厚」講談社学術文庫-雨のことば辞典から

 

 

「近年の「雨のことば」について(学術文庫版あとがき) - 倉嶋厚講談社学術文庫-雨のことば辞典から

「雨のことば辞典」の単行本刊行後十四年間、耳新しい「雨のことば」が、新聞、テレビ、ラジオなどに登場した。今回、講談社学術文庫に収められるにあたり、近年使われ始めた幾つかの新しい「雨のことば」についての筆者の知見を記した。専門用語に偏した部分もあるが、さまざまな分野の読者が雨の情報を使う場合の参考になれば幸いである。

ゲリラ豪雨


ある出版社が毎年行っている新語・流行語大賞では、二〇〇八年のトップテンの一つに「ゲリラ豪雨」が選ばれ、この言葉に深く関わったとしてウェザーニュース代表取締役・石橋博良氏が顕彰された。二〇〇八年は局地的・突発的な短時間豪雨が、思いがけない場所で、これまでなかった形の災害を起こし、世間の関心を呼んだ。民間気象会社の「ウェザーニュース」は携帯電話で「ゲリラ雷雨情報」をメール配信し、登録者は五万六五〇〇人に達したという。しかし「戦争を連想させる言葉を政府機関として使うわけにはいかない」として、気象庁日本気象予報士会などに別の表現を用いる要請したと聞いた。
ただし、ゲリラ豪雨という言葉はすでに一九六九年ごろからマスコミ用語として使われており、筆者も防災気象業務の論文にしばしば使ってきた。

気象観測史上はじめての


一九九〇年の新語・流行語大賞年間多発語句として、この言葉が採用され、テレビ各局のお天気キャスターが受賞者になった。この年代ごろから「かつて経験したことのない」と多くの人が感じる天気が国民生活や経済に多様な影響を及ぼし始めたようである。

ゲリラ的風水害の特徴と増大の背景


ゲリラ豪雨の特徴は、その生起の突発性、意外性、予測の困難性、局地・小規模・激甚性、同時多発性などである。この種の風水害増加の背景には、災害要因としての「時間的にも空間的にも突発的な極端な天気現象」の増大と、被害者側の生活環境の急速な多様化がある。
二〇一三年には一時間五〇ミリメートル以上の「非常に激しい雨」の頻度は過去三十~四十年で三割余り増えた。
土砂災害も過去二十~三十年で五割も増えていることが、気象庁などの調査として報じられ、その原因として地球大気の温暖化との関連が論じられ、「異常気象の日常化」という表現が用いられ始めた。
一方、被災者側の生活環境の変化としては、傾斜地や堤防隣接地域など水害の潜在的危険地帯への生活圏の拡大、都市水害の変貌、すなわち遊水地への住宅地の拡大、舗装・排水路の整備、ショートカット方式の河川改修による出水の早まりと流出波形の尖鋭化(都市鉄砲水)、地下室・地下道への浸水、地下排水路の狭隘[きようあい]・老朽化などによる下水の地上への逆流・冠水、レジャー人口の増大と多様化による野外での激烈な気象現象との遭遇率の増加、人口過疎地の道路網など生活環境の荒廃がある

大気成層の安定、不安定


局地的で突発的な豪雨は、大気の成層状態(上下の重なり方)が不安定になった時に起こる。わずかな「乱れ」が生じた時、すぐに復元力が働いて元の状態に戻るのが「安定」、逆に「乱れ」を助長する力が生まれ、加速度的に変化するのが「不安定」である。
晴れた日に接地大気は地面によって熱せられ軽くなり熱気泡となって上っていく。いわば透明な「熱気球」である。山脈の風上斜面でも上昇気流が起こる。これらの気泡は上昇するうちに気圧の降下で断熱膨張し冷えて重くなり、浮力を失う。これが安定大気。
しかし周囲の気温が気泡の温度より低ければ、熱気球状態を保ち上昇を続ける。これが不安定大気。つまり上空の気温が普段よりも低くて相対的に重く、下層の気温が普段より高くて軽いほど、大気は不安定ということになる。正立[せいりつ]のダルマの置物は下が重くて据わりが「安定」しているが、倒立の場合は触れただけで転倒するのと似ている。
また上昇中に気泡内の水蒸気が凝結して雲になると、凝結の潜熱が放出され熱気球状態を強める。つまり下層の大気が湿っているほど不安定になる。二〇〇八年の夏のゲリラ豪雨災害は、日本の上空に寒気が居座り、下層では湿潤な海洋性熱帯気団が持続的に流入してきたことによる対流圏(地表から十~十五キロメートルの高さまで)の大気の成層状態の不安定により起こった。


降水セル


不安定大気による個々の豪雨は十数キロメートル四方ほどの狭い範囲に降り、継続時間も一時間程度である。降らせるのは個々の積乱雲(雷雲・入道雲)である。積乱雲が一個だけでも災害は起こるが、さまざまな原因で連鎖反応的に発生し、持続すると、記録的な「ゲリラ豪雨災害」になる。このような時、個々の積乱雲を気象学の専門用語で降水セルと呼ぶ。セルは細胞の意味。
個々の積乱雲は「シングルセル・単一セル」と呼ばれ、数個の積乱雲群に組織化された場合は「マルチセル・多重セル」、また一個の積乱雲が幅三十~四十キロメートルまで発達し数時間以上も持続する場合は「スーパーセル・単一巨大セル」と呼ばれている。記録的豪雨災害の多くは、マルチセルまたはスーパーセルによって起こっており、その早期発見が重要視されている。

マルチセル形成の仕組み


突然だが、ここで古歌二首を掲げる。
一つは
「水上は夕立すらし見るがうちに一すぢにごる里のなか川」(荷田春満[かだのあずままろ])
これは親水施設などで遊んでいた児童が上流の雷雨による突然の増水で被害を受けるなど、シングルセルでも油断できないことを教えている。
もう一つは
「なる神の音ほのかなる夕立のくもる方より風の烈しき」(京極為兼[きようごくためかね])
この歌には、マルチセル形成の仕組みのヒントが含まれている。
雷雲(積乱雲)は上昇気流の塊だが、最盛期に達したころから、下降気流が混じるようになる。これは落下する大粒の雨や雹[ひよう]などに空気が引きずられて起こると考えられており、雨粒や氷粒の一部が蒸発・昇華する時に空気から熱を奪うので、外側よりも五度から十度も低くなる。その寒気が積乱雲の下から突風(一部はダウンバーストと呼ばれる)となって吹き出し、周りの高温多湿の空気を押し上げ新しい積乱雲を作る。それが繰り返されるとマルチセルになる。高層ビルが次々に並んだ形のマルチセルを「バックビルディング現象」と報じられたこともある。スーパーセルは豪雨、竜巻、突風を起こす悪性の降水セルの筆頭であり、内部の特有な風系がレーダー観測などにより解明されつつあるが、紙幅の関係で、その解説は気象の専門書にまかせる。

 

命を守るために知ってほしい「特別警報」


気象庁の同題名のリーフレットには、「東日本大震災による津波や、二〇一一年台風第十二号による紀伊半島を中心とする大雨では、極めて甚大な被害がでた。気象庁は警報をはじめとする防災気象情報により重大な災害への警戒を呼びかけたものの、災害発生の危険性が住民や地方自治体に十分に伝わらず、迅速な避難行動に結びつかない例があった。この事実を重く受け止め、大規模な災害の発生が切迫していることを伝えるために、新たに二〇一三年八月から『特別警報』を創設することにした」(一部、用字・用語変更、圧縮、以下同様)とあり、特別警報が発表されたら直ちに避難所へ避難すること、外出が危険な時は家の中で少しでも安全な場所に移動すること、住居の位置、構造、既に浸水が生じているか否かによって自宅外避難の必要性は異なるので冷静な判断が重要なことが、強調されている。
筆者の経験では、前触れなしに特別警報が発表されることは、まずない。多くの場合、一日以上も前にかなり広い範囲で大気の成層の不安定領域が現れる可能性が、「大雨に関する気象情報」などで発表される。これは「数ヵ国の広域内で政治情勢、国際情勢が不安定だから、局地的なゲリラ、テロが起こるおそれがある」という情報に似ている。実際に豪雨や突風が吹くのは、予告された領域全域ではなく、その一部である。局地的な集中豪雨の降水セルの上昇気流は秒速数メートルから十数メートル以上で、広い範囲全体の大気がこのような強い気流で一斉に上空に移動することは不可能だからである。ある場所で強い上昇気流が起こると周囲の空気は下降気流になって横から埋め合わせをするので、豪雨域の広さも限定される。そして不安定領域内で、「ここと思えば、またあちら」というようなざあざあ降りとしとしと降り(地雨)が入り乱れる。地雨は毎秒十センチメートル程度の上昇気流による空一面に広がる層雲系の雲から降る。広い不安定域内のどこかで局地的豪雨が降るのは、いわば普通の現象であるが、その豪雨域に当面してしまった人には「かつて経験したことのない大雨」になってしまうのである。

積乱雲の大軍団


台風、強い温帯低気圧、梅雨、秋霖、春霖の前線帯などは、その全体をゲリラ豪雨域とは呼びにくいが、大気成層の特に不安定な領域を内包しており、地雨域と豪雨域が混在する場合が多い。梅雨前線帯など下から見れば全天、黒々とした層状の雲が広がっているだけの時でも、昼夜の区別なく、電光、雷鳴が続くときは、層雲より上でマルチセル、スーパーセルクラウドクラスターが形成されており、記録的な集中豪雨への警戒が特に必要である。クラウドクラスターは多数の積乱雲・雄大積雲の集団で、その水平方向の広がりは数十キロメートル~数百キロメートルに達することがある。クラウドの雲、クラスターは同種の物の密集群を指す。台風の多くは熱帯海域のクラウドクラスターから巨大な渦巻きに転化したものである。

大雨についてのさまざまな情報


大雨災害のおそれが強まるにつれて、大雨注意報、大雨警報と更新されていくが、気象庁リーフレットは「《特別警報が発表されない》は《災害が発生しない》ではない。これまでどおり注意報、警報、その他の気象情報を活用し、早めの行動をとること、普段から避難場所や避難経路を確認しておくこと」の重要性を強調している。また本稿執筆時の気象庁のホームページには土砂災害警戒情報、土砂災害警戒判定メッシュ情報、記録的短時間大雨情報、竜巻注意情報、竜巻発生確度ナウキャスト、雷ナウキャスト、降水短時間予報、降水ナウキャストなどの情報名が「災害から身を守るための情報」として挙げられている。ナウキャストは今(ナウ)と予報(キャスト)を組み合わせた言葉で、降水短時間予報や各ナウキャストは目先一~六時間までの当該現象の動向をきめ細かく発表するものである。情報の定義や運用方法は今後の実施状況のなかで検討・改善されていくものと思われる。これらの情報が、すでに起こっている局地激甚災害の渦中の人々が適切な行動をするのに役立つためには、住民参加による細域地域防災計画の作成と不断の検討、改善、演習、一般からの発見通報の組織化、適切な行動を具体的に助言できる人材の養成などが特に重要と思われる。