「過去を振りむいたところで - 伊集院静」ひとりをたのしむ 講談社 から

 

「過去を振りむいたところで - 伊集院静」ひとりをたのしむ 講談社 から

人間はどこかで、己の安堵、こころが安住できるものを求める生きものなのかもしれない。
そのイイ例が、何かに自分が属していることで得る安心があるらしい。
田舎から都会へ出て来た人が、同じ故郷の人と、時折、逢って話をしたりするのも、そのあらわれだろう。
都会で感じる孤独のようなものは、故郷の人と話をしたり(酒を飲んでもいいが)、知人の消息を知って、懐かしい思いに、奇妙な安堵を覚えたりする。
東京、大阪、名古屋と言った都市に、必ず県人会なるものがあるのも、そのひとつなのだろう。
そういうつながりから、仕事や縁談がまとまることもある。
“郷土閥”という言葉を、学生時代に習った記憶がある。
私はこの“郷土閥”が苦手である。ところがこれを大事にする人が意外と多い。そういう人から見ると、年に一度の会合に何十年も欠席の返事しか出さない私などは、以ての外の人間の部類になるのだろう。
欠席の理由は、日々の仕事に追われて時間が取れぬこともあるが、そこへ顔を出し、話すことがないのである。
私は「あの頃は良かったナ・・・」などと語る神経が自分の中にない。
普段から、私は過去を振り返えるということを一度もしたことがない。おそらく死ぬ間際でさえ、そう思うことはあるまい。
過去を振りむいたところで、何もありはしないのは本人が一番良く知っているからである。
-いやいや数々の文学賞を獲られて、今もそうしてご活躍じゃないですか。
と言われようものなら、本気で腹が立って来る性分である。それは同時に、社会に出て、今、敬愛したり、見習わねばと思う先輩、同輩、後輩、若い人たちを見ていて、その人たちが過去を振りむいている姿を一度も見たことがないからだ。
性分なのかもしれないと思うが、きちんとした人々を見ると、性分どころか、元々そういう発想を持たぬ人が大半のように思う。
“郷土閥”と同じかたちで“学校閥”というのもある。高校なり、大学が同じことが或る種の共通意識を持つことがある。
これもまた仕事、人づき合いの名目になり、現実、大切な仕事を成就させた例も多い。
この“学校閥”というのも、私にはまったくない。
なぜそういう感情になるのだろうか?
私は、おそらく“属する”ことが嫌いなのだろうと、自分では思っている。
なぜそういうことを嫌悪するのか?

“学校閥”で言えば、これを成立させているのは一流大学(東大でもかまわんが)の者が大半で、三流大学(何の基準か知らぬが)ではあまり聞かない。同時に一流に属してない人から見ると、排他的であったり、上から見られている嫌な感触があるのではないか。
己の力量でもない傘の下で、雨、風をしのぐのは大人の男らしくない。
ただこれは私の思いで、人間は何かに属していることで安寧を持つ生きものであるのはたしかなのである。
ただそこに属さない人(私もそうだが)から見ると、その集団は、やはり眉根にシワを寄せたくなるのである。
妙なことを書いていると思う。
ただ何人か、わかる人もいると確信する。

“△△世代”なる表現がある。
あれも聞いていて、嫌な気持ちがするし、同じ思いの人はいるだろう。
最近、女子のプロゴルファーで活躍している子たちを“黄金世代”と呼ぶらしい。
ゴルフマスコミは、何かを言い当てたように口にするが、そこに属していると本気で思っている女子プロは一人もいないはずだ。
マスコミは昔から総論、もしくは断定を好むし、そういう発想を持って、取材対象を見る。その方が世の中を語っていると勘違いをしているからだ。
松坂世代”というのも、時折、聞く。同じ世代だからという理由で「あなたも松坂世代ですからね」などと言われて、喜ぶプロ野球選手は一人もいないと思う。プロはそういうことを一番嫌う。
団塊の世代”という言葉があった。これを聞いた時、つまらない表現をしたものだ、と呆きれた。そんな世代に逢ったことは一度もない。しかしマスコミの大半は、的を射たように使った。文章の程度が(能力が)悪いのである。人間はまず一人であることを尊重せねばならぬ。それが礼儀である。
先日、ゴルフコースの大きな池に、私のボールが水しぶきを上げ、むこうのホールから打ったゴルファーのボールもその池に入った。
「おんなじようなバカがむこうにもいたか」
これは違う属し方で、愛嬌がある。