「宿命について(後半抜書) - 福田恆存」ちくま文庫 私の幸福論 から

「宿命について(後半抜書) - 福田恆存ちくま文庫 私の幸福論 から
 
今日、宿命論というと、たいていのひとがそういった因果物語を連想します。ことに日本人の血のなかには仏教的宿命観が根づよく植えつけられているので、それからようやく這いだして、ほっとしている現代人には、宿命ということばを耳にしただけで、なにか忌わしい亡霊に出遭ったような気がするのでしょう。だが、安心してください。お断りしたように、私はそんな意味の宿命論をお話ししようというのではありません。
人間に自由があるかないか、そんなことを客観的に理窟で論じあったところで、おそらく切りがないでしょう。ドストエフスキーの『悪霊』という小説にキリーロフという人物が出てまいります。この男は、いわば自由という観念のとりこになった男です。かれはこう考えます。人間は自由でなければならぬ。また自由でありたい。ところで、自由であるためには、自分の欲することを、欲するようにやってのけねばならぬ。いやいや強制されて、なにかをしてはならぬ。つまり、あらゆる行為は、自分のほうで進んで選びとったものでなければならない。そうなると、いまのところ、死だけは、何人もそれを自由な行為となしえない。たしかにそのとおりで、だれでも死なねばならず、いま死ぬのはいやだといって、それを回避することはできません。死だけは、こちら側でそれを自由に選びとるのではなく、向う側でこちらを勝手なときに勝手なやりかたで選びとるのです。そういう死にたいして、人間が自己の意志の権威を見せてやるためには、さきにこちら側で自殺するよりほかにない、そうキリーロフは考えます。考えたばかりでなく、実際に自殺して見せます。
が、みなさんは、このキリーロフの死を見て、キリーロフは死にたいして自分になりえたとおもうでしょうか。人間はキリーロフによって、絶対に自由であるという証明を得たと思いますか。いうまでもなく、そうはおもわないでしょう。キリーロフの自殺は、神経衰弱のひとや、破産したひとの自殺と、すこしも変りはしません。神経衰弱という病気、破産という悲劇、それが多くのひとを自殺させたので、「自殺した」というのは、結局「自殺させられた」ことにすぎません。同様に、キリーロフは絶対の自由という思想に自殺させられたのです。やはり受身は受身です。
封建時代の日本の切腹を現代人はばかばかしいとおもうでしょうが、キリーロフの自殺はそれ以上にばかばかしい。切腹は自由意志によるものではなく、処刑では当人の名誉を傷つけるということで、切腹を命ずるのですから自殺とはいえません。しかし、キリーロフのように自分の思想にしたがったところで、死んでしまうば、その自分がいなくなるのです。自分がいなくなっては、死を征服した自由の喜びを味うことができません。そればかりでなく、そういう思想にとりつかれたキリーロフの自由は真の自由とはいえず、やはり一種の宿命にあやつられていたものとしかいえますまい。
私はさきに宿命論について、フランスの劇作家の観念的な考えかたを指摘して、それを堕落といいましたが、このキリーロフのように、自由論も極端までいくと、やはりこのような観念的堕落におちいります。ごく常識的にいって、自由論一点ばりでもいけなければ、宿命論一点ばりでもいけないということになります。
それにもかかわらず、私が宿命ということを強調せずにいられないのは、今日あまりに自由という観念が安易に通用しているからです。そして、その安易な流行のおかげで、多くのひとびとが不幸になっていくのを眼のあたり見せつけられるからです。自由を説き勧めるひとたちは、それが商売ですから、繁昌すれば、多少は幸福にもなれましょうが、そのひとのいうことをきいて、そのとおりに行動したひと、あるいは、なるほどとおもいながら、そのとおりに行動できぬため自分をつまらぬものにおもいこむひと、そういうひとたちが多くなっていくのは困りものです。
そこで、私はみなさんに、いわゆる宿命論ではなく、宿命ということそのことについて、改めて考えなおしていただきたいとおもうのです。
宿命というのは、そんなに辛いものかどうか。みなさんは、そんなに宿命を嫌っているのかどうか。逆にいえば、それほどに自由を欲しているのかどうか。結論をさきにいうと、私たち人間は、自由を欲すると同程度に、自由のないことを、すなわち宿命的であることを欲しているものなのです。そのことと関連して、つぎのことも真理です。自由というのも、また程度問題で、あるひとにとって好ましい自由が、他のひとには持ち扱い不自由な重荷になることがあるのです。
さて、ひとはどういうふうに、またなにゆえに宿命を欲するか。この問いにたいして、私は二つの答えが与えられるとおもいます。第一は消極的なものであり、第二は積極的なものであります。
まず第一のものについて、お話しいたしましょう。いま申しましたように、自由というものは、なにかをなしたいという要求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられていなければなりません。『大学』という本のなかに「小人、閑居して、不善をなす」とありますが、それは「つまらぬ人間に暇を与えるとろくなことをしない」というほどの意味です。小人とは、いいかえれば自己の内部に激しい要求、豊かな能力、強い責任感をもたないひとのことです。ですから、そういうひとたちは、自由な暇が与えられても、なにをしていいかわからない。なにをする理由も、手がかりもない。したがって、つい、くだらぬことに手をだしやすいのです。
私たちはたいていその小人に属します。なにかをする理由や手がかりを、自分の内部にではなく、他に求めようとする。そのほうが楽なのです。が、そのときに、宿命というやつが、私たちに甘いささやき声をおくらないでしょうか。さっき例にあげた自然主義時代の小説ですが、それを読んだあとで、大酒飲みの放蕩者を父にもったどこかの子が、自分も放蕩者になるのを、宿命の名によって許すことがないとはいえますまい。また精神分裂病の遺伝の持主が、自分の性格のささやかな特徴を楯にとって、怠惰と無気力とのなかに安住することがないとはいえますまい。