「『「平穏死」のすすめ-石飛幸三』の解説 - 日野原重明」講談社文庫 『「平穏死」のすすめ』から 

 

「『「平穏死」のすすめ-石飛幸三』の解説 - 日野原重明講談社文庫 『「平穏死」のすすめ』から 

 

いったい、いつのころから日本人は安らかに逝くことができなくなったのかと、本書を閉じて読者は宙を見つめるのかもしれません。日本人の多くが最期を家か施設で迎えたいと願いながらも、八割が病院で亡くなっていくという現実は、日本人の終末期が最後の瞬間まで医療の下に置かれていることを証しています。現に医師の記す死亡診断書には、戦前には多く見られた「老衰」の記載がめっきり少なくなりました。「老衰」は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合にのみ記載がゆるされているからでもありますが、医療が高度になるにつれて、ぎりぎりまで延命の手立てが尽くされるからでもあります。つまり、なかなか自然には死ねなくなったのです。
しかし、石飛氏が老人介護施設で身をもって体験されたとおり、老齢の人の終息に向かう歩みは本来ゆるやかであり、穏やかなものです。「枯れるように死ぬ」とはよくいったもので、老衰から生じる脱水は、苦痛の少ないゆるやかな死を当人にもたらしてくれます。「自然に反したものはどんなものでも苦痛を与えるが、老いとともに終局に向かうものは、およそ死のなかでももっとも苦痛の少ないもの」というプラトンのことばは、二千年以上のときを経てなお真実なのです。これまでの医学の教える常識からすれば、脱水は避けるべきものであり、栄養は生きているかぎり補給すべきものとされますが、やがて終わりを迎えるからだには、必要以上の栄養や水分は当人に負担となり、負担はそのまま苦痛につながるのです。
翻[ひるがえ]っていえば、安らかに、穏やかに逝くことを難しくしているのは実は今の医療であり、それを後押ししているものは、医療に寄せる人びとの過大な期待ともいえましょう。仮に医師がこれ以上の医療は控えたほうがよさそうだと賢明に判断したとしても、見守る家族は「点滴の一本もしてくれない」と落胆し、医師に対して何かしらの医療的な処置を求めてしまうのです。医療の力があれば、いのちをここに引きとどめておけるのに、それをしないのはむごいことだと医療者を責め、同時に家族である自分を実は責めているのであろうと、私はその苦しい胸の内を思います。おそらく終末期における胃ろうも、その一つなのです。
この矛盾をはらんだ現実を、石飛氏は特別養護老人ホームの常勤医となってから直観されました。生の集大成ともいえる死を自ら生きることなく、医療に委ねたままでよいのかと、氏はかつて血管外科医として医療の最先端に身を置いてきた自分に対してまず問われたのです。人は死をどう生きるべきか。そして、生を完成させるこの終末に立ち会う医療は、そこで何をなすべきか。いや、間違っても何をしてはならないのか、と。この問いが始めにならなければ、特養・芦花ホームでの平穏な看取りはいまだ実現されなかったかもしれません。それほどまでに、この問いは深く重い本質をとらえています。

 

石飛氏と看護界に今なお多大な貢献をしておられる川島みどり氏を交えた鼎談[ていだん]のなかで、石飛氏が自身に向けたこの問いについて私は直接たずねる機会がありました。
「治すことに専念してこられたご自分に対して、石飛先生はこのままでよいのかと六十代になられてから疑問をもたれたということですが、そのきっかけは何だったのですか」という私の問いかけに、石飛氏は特養の常勤医となった前後に遡ってお話しくださいました。
その詳細は本書に記されていますが、特養といえばきわめて介護度の高い人たちを受け入れる終身の施設で、つねにどこの入所待機者も定員の数十倍にも上ることで知られています。名だたる病院の副院長として、また血管外科の名医として務められた最先端の治療の場から、老いに寄り添う生活の場への転身を、石飛氏はもちろん頭では了解したうえでこの新たな任に就かれたわけですが、平均年齢九十歳にも及ぶ百名の入所者の様子を見て回られ、自身の想像から隔たる光景に衝撃を受けられたのです。およそ二割の入所者が進行した認知症をもち、意思の疎通はおろか、口から食べものを飲み下せなくなって、胃ろうや経鼻胃管を介して栄養を受けながら、ただただ横たわっておられる姿がそこにありました。
「かつて外科医とその患者として生死の窮地を共に戦い抜いた、予想だにしなかったその後の姿を眼前にして、全身全霊で治してきたことはご当人の人生にとっていったい何だったのかと問わずにはいられませんでした」と、石飛氏は話してくださいました。そして、「それ以前の私は、大きな手術を前に躊躇する患者があれば、その人がいくつであろうが構うことなく、またその人が人生において何を大事にされたいのかをたずねることもなく、“いのちを粗末にするものじゃないですよ”とたしなめていたのです」と、率直にことばを継がれました。
私はそれをうかがいながら、石飛氏の転身後の信念の変化と私自身の来し方とを重ね合わせて思いました。氏と私は二廻りの年齢差はあるものの、私が終末期の医療のあり方にようやく目を見開いたのも六十代になってからなのです。それまでは、やがて消えゆくいのちの灯に対しても最後の瞬間まで延命に手を尽くすのが医師というものだと信じて疑いませんでした。無理な延命がかえって当人に苦痛を与え、そればかりかいのちの尊厳を乏しくしているなどとは考えも及ばなかったのです。
石飛氏も本書に書かれておられるとおり、医学はいまだに死について、また看取りについて多くを記していません。死を、医学の敗北ととらえ続けるならば無理もないことだといえるでしょう。しかし、医学がどう進歩しようと、結局は死には抗[あらが]えないのです。どんないのちもやがて死を迎えます。この自然の摂理に謙虚であることを忘れたとたん、医療のテクノロジー化の波にのまれるままに、人間がその内側に本来もっている「自然」という力が軽視され、いのちの根源的な意味はますます影をひそめて、その物理的な現象だけが取り扱われるようになってしまいました。石飛氏、川島氏、私の三人は、こうしたいまの医療からの大転換を、医療・看護・介護界に巻き起こす必要を強く感じているのです。

さて、衝撃で始まった石飛氏の特養での日々は、誤嚥性肺炎との目に見えぬ闘いでもありました。平成二十三年の調査で、肺炎が脳血管疾患を抜いて日本人の死因の第三位に浮上したことは記憶に新しいところですが、まさに高齢者の死因はその多くが肺炎です。特養のスタッフは誤嚥させぬようにと、細心の注意をつねに払い続けなければなあないのです。その緊張感が並々ならぬものであったことが、本書から読者にも伝わってくることでしょう。なにしろ「嚥下[えんげ]」と呼ばれる飲み込みの機能は実は非常に複雑で高度な運動で、いったん神経に障害が生じると、たちまち嚥下は困難になってしまいます。加齢のためにただでさえその機能が低下して噎[む]せやすくなっているところへ、脳卒中認知症等で神経が障害されると、わずかな食塊や水も誤って気管内に入りこみ、肺炎を引き起こしてしまいます。こうして、嚥下機能が落ちた人には、死の危険が伴う口からの摂食を断念して、胃ろうや経鼻胃管で栄養を補給することになるというのが、標準的に行われている嚥下障害への対応です。
しかし、胃ろうをつくってもなお誤嚥性肺炎を防ぎきれない現状に石飛氏はまたも頭を抱えられます。ちょうどそのころ「三宅島での看取り」を知り、ほどなくして、胃ろうに頼らずに、ご本人のからだの求めるごくわずかな量の食事を口から食べていただく介助をしながら、ゆっくりとその穏やかな生を支えていくケアを、一人また一人とホーム一丸で重ねていかれたのでした。
こうして、氏の体験のもとに生まれた「口から食べられなくなったらどうしますか」という極めて素朴な問いかけは、「平穏死」という含意ある一語とともに、高齢の家族の介護に直面した人びとのまさに揺れる心の核心を衝き、それまで一般の人びとが知ることのなかった胃ろうの是非を世論に巻き起こすことになりました。しかし、繰り返していうまでもなく、氏が問うているのは、単に胃ろう造設の是非ではなく、人生の最終章に向かう私たち個々の生き方それ自体です。
これまでの医療はいのちの量と長さだけを目標としてきましたが、本来私たち誰もが求めているものは、いのちの長さよりも深さ、量よりも質ではないでしょうか。人間は果実の芯に種を抱くリンゴのようなものだと詩人リルケがいうように、私たちは死という種をすでにもって生まれているのです。その種をどう育[はぐく]むか。めいめいが自身の死をどうつくるか。私たちは死から生を見て、生を生きなければなりません。そして医療者は、その固有のいのちが豊かであり続けることをその人の傍らで支えるのです。
私は石飛氏が実現されようとする看取りのあり方と、それを「平穏死」と名づけられた氏の命名に賛同しています。そのことを対談や鼎談でお会いした折りにお伝えし、この看取りのあり方を外国の人にも伝えていけるよう英語での表現が必要ではないかと思いました。そこで、「英語ではどのように表すのがよいでしょうか」と氏にうかがい、私自身もそれを考えてみましょうとお約束していました。
家族や親しい者と穏やかに今という時間を共有するそれは、「終わり」ではなく、むしろ永遠の生への「出立」のように私は思います。ならば、幼子が母の子守唄で身も心も解放されて、目覚めるまでのしばしのあいだ、安らかな寝顔を見せてくれるのと同じひとときを、と願うのです。
Peaceful Eternal Life -
そう呼んでみてはどうでしょうか。