「ラグナグ国のストラルドブラグ - 鈴木司郎」02年版ベスト・エッセイ集文春文庫から

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「ラグナグ国のストラルドブラグ - 鈴木司郎」02年版ベスト・エッセイ集文春文庫から

最近の医療技術の進歩は誠に目覚ましい。遺伝子治療によって多くの難病の治療が可能となりそうであるし、癌の撲滅もできるかもしれない。また、老化に関わる遺伝子の操作によって老化そのものを遅らせることも考えられているようである。一方、再生医療技術の進歩によって、失われた機能、部分の再生も可能になる見込みがあるし、さらには、精子卵子や妊娠初期の胚、胎児に種々の操作を行う生殖医療だけでなく、生殖細胞に対する技術的操作によって、人類の改造も可能になるかもしれない。このような見通しから、「人は“神の領域”にまで到達した」という表現が立花隆氏によってなされている。しかし、このような医療の進歩によって人間の寿命の延長が可能になったとしても、それが直ちに人間の幸福に繋がるものかどうかは、疑問のあるところである。
医療の目的は疾病の治癒と健康の保持にあることは当然であるが、これらの技術によって文字どおりの不老不死を目指すとするならば、それは間違った方向であると言わざるを得ない。なぜならば、多細胞生物には必ず個体としての終わりがあるという、生命誕生以来四〇億年に亙る自然の摂理に反すると思うからである。
別の表現をすれば、多細胞生物における老化と死は、発生、成長とセットになった一続きの現象であろうから、その過程を成長の終わった時点で止めて、その後同じ状態を維持しようとすることは、なんと言っても虫のよすぎる話で、将来なんらかの操作によって老化を多少遅らせることはできるかもしれないが、止めることはできないと思う。
遺伝子の病気である癌の発生も成長、老化とリンクしている現象であろうから、老化の進行とともに癌の発生は増加するであろう。しかし、治療対策の進歩によってそれぞれの癌の治癒は可能となるであろうから、もぐら叩きのようになって、同じ個体に異時性の重複癌が増加することになる。事実増加している。結局、癌、難病の治療は可能になったとしても、血管と脳神経を中心とした全身的な老化は進行するとなると、多少の寿命の延長はあったとしても、生命の質の極端に低下した廃人のような人生を迎えるということになりそうである。

このような状況を文章にしたと思われるのが、スウィフトの『ガリヴァ旅行記』の第三篇に記されている、「ラグナグ国のストラルドブラグ」(不死人間)である。
ガリヴァの小人国、大人国渡航記は、子ども向けの読み物ともなって、誰でも知っているが、彼はその後も航海に出かけて、日本近海にあるとされるラグナグ国に辿り着いている。ここで不死の人間が存在することを知らされるのである。
この国では、何万人かに一人の割合で額に赤痣[あざ]のある子どもが生まれることがある。その子は成長後老化は進行するが不死であることがわかっており、ストラルドブラグと名付けられて、国としての特別の対策の対象になっているというのである。
当初、この話を聞いたガリヴァは、「長寿であり不死であれば、それはなんとも目出度いことで、さぞかし老賢人として尊敬される存在であろう。もし自分がそのような者に生まれついたならば、長期に亙って蓄積した知識と富を使って、世の役に立つことがいくらでもできるであろうに、ほんとうにこの国は素晴らしい」と述べたところ、同国人の反応は異様で、中には失笑を洩らす者もいたのである。そこでよく尋ねてみると、彼の予想とは大いに違った存在であったのである。
ストラルドブラグは不死人間とされているが、なぜこのように呼ばれるようになったかは一切言及されていない。額に赤痣を持って生まれ、三十歳くらいまでは普通に成長するが、その後、痣の色が赤から緑、青、黒と変化するとともに意気消沈しはじめ、それと同時に老化のマイナス面である頑固、意固地、貪欲、気難しさ、自惚[うぬぼ]れ、物忘れなどが進行し、社会生活が難しくなる。八十歳を過ぎると禁治産者としての取り扱いを受け、以後は国家からわずかな手当てを受けて、一切の面倒を国がみていくことになるのである。
ストラルドブラグ同士が結婚することもあるが、子どもは普通の子どもとして生まれるという。彼らが文字どおり不死であれば、時代とともに少しずつその人数と割合が増加するはずであるが、最終的にどうなるかは記されていない。彼らはすべての人間から忌避され、憎まれており、その結果、一般の人々は長寿を願うことはないという。
以上が、ガリヴァが見聞きした不死人間の有様である。老化のみが進行して死ぬことがない場合の人間の状況が、いかにも諷刺的に表現されている。今後の高齢者医療の結果がすべてこのようになるとは思わないが、たとい寿命の延長はあっても、その期間は健康で、生命の質がよく、社会的にも受け入れられて、生きがいのある生活を送れるものでなければならないということがよくわかる。これからの高齢者医療は、このような方向を目指すものでなければならないだろう。

一方、いくら医療の進歩があったとしても、死が不可避であることを意識するならば、死をどのように迎えるかという問題を避けていては、高齢者の問題は解決した形にはならない。この問題は、医療の目的を疾病の治癒と健康の保持とすると、その範囲を逸脱するものとも思えるが、高齢者医療の現場では多くの倫理的な難問が生じていることは、橋本肇氏の近著からも窺うことができる。
私としては、各個人がどのような死を迎えるかの選択ができるようにしてほしいと思う。選択肢としては、今多くの病院で行われているような各種チューブに繋がれて死を迎える以外に、尊厳死協会などの活動を通じて積極的な延命治療を行わないという、いわゆる尊厳死の道は開かれているが、それ以上の積極的安楽死については本邦では未だ社会的合意も得られていないし、十分な議論もなされていない。そのほかに、自己の意志が固く、気力、体力も十分であれば、作家の江藤淳氏が選んだような、自裁の道を取ることは誰も止めることはできないはずである。
西部邁氏は、「人間が人間であるということは、精神の働きにその本質があると考えられる。そこで精神の働きが止まった後も人為的に生かされていることには耐えられないので、精神の働きが正常な間に自己の明確な意志をもって、衝撃的にではなく、自死をはかるのが最も自分に適当な死の迎え方である」と主張している。
私も氏の意見はよく理解できるし、できればそのようにしたいと思っているが、問題は、自裁の道を選んだつもりが未遂となった場合や、急激に起こった重篤な病で気力・体力がなくなってしまった場合、あるいは、もはや自己の意志と自立した判断を表現し得ない状態となってしまった場合である。このような場合にも、予め示された個人の希望が確認されれば、それが実現されるように他人が手を貸す、積極的安楽死が可能であるとよいと思っている。
本邦でこれが可能になるのはいつのことかわからないが、オランダでは、このことについての社会的合意があり、特定の条件下での自殺幇助が合法化されたところであり、またスイス、アメリカ等でも活発な議論がなされている模様である。
本邦でもこの種の議論がなされることを期待しているが、当面できることとして、事前の指示(Advance directives)を明確にしておくことと、残る期間を健康に過ごすために、毎日の努力を怠らず、定期的な健康チェックも続けるつもりである。何よりも大事なことは自己責任に基づいた自己決定権を尊重するということであろう。