「25歳の女子が考える『一晩置いたカレーはなぜおいしいのか』 - 印度カリー子」 一晩置いたカレーはなぜおいしいのか - 稲垣栄洋 新潮文庫 から

 

「25歳の女子が考える『一晩置いたカレーはなぜおいしいのか』 - 印度カリー子」 一晩置いたカレーはなぜおいしいのか - 稲垣栄洋 新潮文庫 から

 

 

ニンジンは根を張って自分自身を土の中に引き込む!メロンの網目は「かさぶた」だった!この本では、身の回りの食材の知られざる秘密が次々と紹介されていきます。そして、お好み焼きそば、寿司など多くの料理には、栄養素や抗菌作用など食材が持つさまざまな特徴が生かされているいることを実感させられます。その中で、特に印象に残ったのは、やはり本書のタイトルにもなっているカレーライスでした。
これまで私は、東京大学大学院で食品科学を専攻するかたわら、スパイスの普及のため、オリジナルスパイスセットの開発や、スパイスカレーを中心としたレシピ本の執筆に取り組んできました。現在は、スパイス料理研究家として活動しています。そんな私のこれまでの知識と経験から、一晩置いたカレーがなぜおいしいのか、本書に書かれていた内容をさらに深く考えてみました。
まず「一晩」という前提から、6~24時間内に、調理時の100℃近くから常温まで(冷蔵庫に入れるならば10℃以下まで)温度が下がるという過程で、カレーにどのような反応が起こるのか、3つの仮説を立ててみたした。
①うまみの増加・・・タンパク質変性、浸透圧
②舌触りの変化・・・糖と脂質の複合体の形成
③具材の調和・・・・特徴的な香りの減退、共通の香りの重なり合い
まず、①うまみ、甘みの増加です。グルタミン酸イノシン酸などのうまみの素[もと]として有名なアミノ酸が増加すると、カレーはおいしくなり、コクや深みが増したように感じられます。
肉の筋肉のタンパク質の中には、水分が閉じ込められています。この水分にうまみが溶けこんでいます。生肉のままだと、うまみはタンパク質に閉じ込められたままですが、肉を加熱するとタンパク質が変性し、中の水分が流れ出てきます。これがルーに溶け込み、うまみが増加します。
タンパク質を加熱したからといって、すべての水分(うまみ)がすぐに流れ出てくるわけではありません。例えば冬の鍋料理で、唐揚げ用サイズくらいに切られた鶏モモ肉を煮ると、最初の15分程であれば、まだ肉の中にはたくさんの水分が残っているので、柔らかくもっちりとしています。一方で鍋の終盤、締めのタイミングで鍋の底に残っている鶏肉は、既に30~40分ほど煮込まれて水分が流れ出してしまったため、パサパサとして硬くなっています。さらに締めで雑炊を作ったとすると、雑炊ができあがる頃には鶏肉の繊維はほぐれて、ほろほろになっていたりします。
肉のタンパク質にもいろんな種類があり、加熱に弱いものから比較的強いものなど、様々です。そのため、調理中の15分~20分程度の煮込み時間では、熱に弱いタンパク質から溶け出したうまみしか得ることができません。ずっと加熱していれば、1時間程度で肉の中のうまみをすべて取り出すことができるかもしれませんが、そうすると肉はほぐれ、野菜は溶けてしまうでしょう。

そこで、肉や野菜など具材の形を遺したままうまみを取り出す方法が、カレーを一晩置いておくという方法です。加熱に比較的強いタンパク質も、熱が加われば部分的に変性します。その変性した一部分から、うまみがゆっくりゆっくり流れ出てきます。これは肉だけではなく、野菜のうまみでも同様です。野菜のうまみが溶けた水分も細胞壁の中に閉じ込められています。細胞壁は比較的熱に強いのですが、加熱されることで一部が壊れ、そこから時間をかけてうまみが染み出てきます。
また、鍋に固形のルーを入れたあとは、肉の外側は、肉の内側よりも塩分濃度が高くなります。浸透圧は、濃度の差を薄めようと、濃度の低い肉の内側から、高い外側へと水分が移動するときの圧力をさします。そして、変性したタンパク質からうまみが流れ出てくるのと同じタイミングで、この浸透圧が働きます。つまり、うまみを含んだ水は、肉の外側、すなわちルーの中を移動しようとする流れができるのです。この圧力は、野菜にも働きます。
うまみと同様に、甘味でも同じことが起きると考えられます。タマネギ、ニンジン、ジャガイモは蒸しただけで「甘い!」と感じることがありますが、これは野菜の内部に糖が含まれているからです。これらの糖も、壊れかけた細胞壁から浸透圧の流れに沿って、ゆっくりゆっくりカレーの中に染み出してきます。
そうして一晩経つ頃には、うまみと甘味が十分に溶け出た状態ができあがります。
浸透圧が小さくなるのは、具材の内側と外側で、塩分濃度が同程度になった時です。これが味の染みた状態で、食材にもちゃんと塩気が感じられるようになっています。逆に言えば、素材に味が染みていないうちは、まだうまみや甘味がカレーの中に出きっていない状態です。そして、筑前煮やおでんの汁が一晩経つとおいしくなるのも、同じ理由からだと考えられます。

次に、②舌触りの変化です。食品科学の世界ではテクスチャーと呼ばれており、食感や舌触りはおいしさの重要な一因になっています。ふにゃふにゃのポテトチップス、ざらざらしたプリンなどをおいしくないと思ってしまうのは、テクスチャーが良くないからです。
本書でもジャガイモのデンプンが溶け出て、とろみが増すことが説明されています。私はさらに、この溶け出したデンプンが脂質との複合体を作り、舌触りを良くしている可能性を考えました。
デンプンを加熱すると、糊化[こか](α化)して水を吸って粘りのある状態になります。たとえば、お米を炊飯すると柔らかくなって粘り気が出てきますが、この時、米の中のデンプンは糊化しています。
デンプンはらせん構造を持つのですが、糊化している状態で脂質と合わさると、デンプンのらせん構造の穴に脂質が入り込み、複合体を形成します。
複合体が形成されると、脂質は水の中に溶け込みます。これを乳化と呼び、乳化すると本来交わり合わない水と油が一体化するために、舌触りが良くなります。脂身のある肉をゆでると水面に油が浮かんできますが、これは油が乳化しておらず、水と分離している状態だからです。一方で欧風カレーの表面には、油滴が浮かんでいることは滅多にありません。これは脂質がデンプンと複合体を形成して、乳化して水の中に溶け込んでいるからです。また乳化するとただ舌触りが良くなるだけではなく、油に溶けた肉のうまみがカレーの全体にしっかり溶け込むため、おいしさをより感じやすくなります。
パスタソースを作る時に、パスタのゆで汁を少量ソースの中に入れるのも、ゆで汁に含まれる小麦粉のデンプンで、ソースを乳化させるためです。ひよこ豆を使ったフムスや野菜のポタージュを作る時も、豆や野菜を煮てペースト状にして塩で味をつけたあと、そこに少しの油やバターを加えると、舌触りが良くなります。
ちなみに、インドカレーでも豆がメインのカレーである「ダルカレー」では、乳化の原理を利用しています。油を加えると煮崩れた豆のペーストの口触りが良くなり、さらに油に溶けやすいスパイスが全体に溶け込んでおいしくなります。一方で、インドカレーの中でもシンプルな肉だけのカレーなどを作ると、ジャガイモや小麦粉などを使わないため、デンプンによる乳化が起こらず、表面に油滴が浮かんできます。
カレーを一晩寝かせると、ジャガイモのデンプンがカレーの中に溶け出し、調理後に冷めていく途中の過程や再加熱した際に、肉の脂質と一体化してさらに心地の良いとろみを形成していくと考えられます。

最後に、③具材の調和です。切りたての野菜や、瓶を開けたてのスパイスからは、特徴的な香りがします。これは揮発しやすい物質が最初に飛び出してくるからで、この香りこそが、野菜やスパイスの特徴を担っているとも言えます。しかし複数の野菜やスパイスを合わせて作る料理の場合、それぞれ特徴が出過ぎていると、一つの料理としてまとまりがありません。さらに、揮発性の高い香りは、一番最初こそ香りを強く放ちますが、次第に飛んで香りが薄くなっていきます。
ただし、香りが飛ぶのは悪いことばかりではありません。加熱調理後に一晩置いておけば、揮発しやすい香りはすっかり飛んでしまって、揮発性の低い、似たような化学構造を持った香りだけがカレーに残ります。これによって具材の調和性が増したように感じられると考えられます。
欧風カレーは煮込み料理なので、何か一つの香りを立てることよりも、全体の調和を大切にします。香りの強い魚介やピーマンなどの野菜をカレーの中に入れると、その香りが際立ってしまい、好きな人は好きかもしれませんが、人によっては「ややにおいが気になる」という印象の仕上がりになってしまいます。和食も調和を意識した料理が多いので、強い香りが飛んで調和のとれたカレーは、日本人の嗜好性にも良く合っていると思います。
スパイスも同様で、カレールーにも使われるミックススパイスであるカレー粉は、ひきたてのスパイスではなく、ひいてからしばらくの間寝かせたものです。スパイスを寝かせる工程を「スパイスの熟成」と呼んでいる人もいますが、要するに、強すぎる特徴的な香りを飛ばして、全体的にまとまりのあるスパイスにしているのでしょう。日本ではこの調和を守ったカレー粉が好まれ、よく使われています。
ちなみに、インドでは逆の考え方をします。そもそもインドカレーは、煮込み料理ではなく炒め料理で、1~2種類の主役の素材とスパイスの香りができるだけ立つようにした、香りを食べる料理です。重視されるのは、調和やコクよりも、フレッシュな肉や野菜、スパイスの強い香りです。だから、スパイスはひきたてのものが好まれ、作りたてのカレーがもっともおいしいと言われます。これは、調理方法や使われる素材、また嗜好性の違い、インドのような常夏の国では保存が利かず一晩寝かせられないという環境の違いなどにもよると思われます。実際、インドカレーも一晩寝かせるとスパイスの強い特徴的な香りはなくなって、日本人好みの調和性のあるカレーになります。
カレーを一晩寝かせることによって、複数の素材とスパイスの香りがまとまり、日本人好みの調和性のある一つのカレーに仕上がると考えられます。

このように、一晩置いたカレーがおいしくなる理由を考えていると、これまでの食品科学の知識から様々な可能性が思い浮かぶのですが、同時に、「知っている知識」だけからしか物事を考えられていないことにも気付かされます。また、「アミノ酸のうまみ」や「糖の甘味」、「揮発性の香り」などというのは、これまでの科学で解明されてきたことですが、これだけがカレーをおいしくする理由とは到底思えません。そこには、まだ解明されていないおいしさの科学が、もっとたくさんあるように感じられてしまいます。
そして、これはカレーに限った話ではありません。すべての料理において、おいしさの科学は、まだ研究の途上にあります。さらに、生きていくうえでより重要な、栄養や健康機能性の科学においても、まだ多くの部分が解明されていないのです。
今の社会や現代科学の発展を見ていると、まるで身近なことはもうすべて解明されたように思えてしまいますが、じつはそうではありません。食品の科学は、最低限必要な栄養素を解明できたくらいにすぎないと言っても過言ではありません。それも、「不足すると健康に問題が発生する」ことから逆転的に見つけられた必須栄養素であり、本当のおいしさを追求する科学や、心身の健康をより良くするための機能性食品などの研究は、依然として発展途上です。そしてこれらの分野でも、今までの経験則を元に研究されていることがほとんどでしょう。
時折「これだけ食べていれば1日に必要な栄養素が取れます!」と謳った食品を見かけ、ゾッとすることがあります。そこに挙げられている栄養素は、これまで人間が解明できた栄養素の集合体にすぎません。そして、解明されていない栄養素はそこには入っていないのです。
本書の中にも出てくるように、私たちが渋み、苦味、雑味と捉えている部分に、本当に必要だった栄養素や健康機能を持った栄養素が含まれていることは、良くあることです。同時に、食の経験則というのは、身体の自然な必要性に沿っていることがほとんどです。
人間が解明し切れていない栄養素を摂取する唯一の手段は、自然の植物、動物を食べることです。そして、どの動物も植物も、もとをたどれば一つの尊い生命です。
感謝の気持ちを忘れることなく、今日もおいしく「いただきます」。
(二〇二一年十二月、スパイス料理研究家)