「料理人は片づけながら仕事をする ー 伊丹十三」ちくま文庫 カレーライス大盛り から

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「料理人は片づけながら仕事をする ー 伊丹十三ちくま文庫 カレーライス大盛り から

私が料理を始めた動機というのは、ごく愚劣なものなのです。まあお聞き下さい。
二年ばかり前、私ども夫婦は半年ばかりロンドンで暮した。ハムステッドにフラットを借りて自炊して暮した。ここの家主というのがフランス料理の大家で、自分の作った料理をひとに食べさせるのがなによりも好きという独り者のうえに、うちの奥さんがそれに輪をかけた料理気違いです。
それゆえ、私が居間でもってソファーにふんぞりかえって子母澤寛氏の「味覚極楽」なんぞを繙[ひもと]いていると(ついでながら、私は外国へゆく時は必ずこの書物を携えてゆくのです。ロンドンで、ローマで、パリで、もう何十回読み返したかわからない)このドメスティックな二人組は台所で盛んにラルースの「フランス料理大全」なんかをひっくりかえしたり、なにやら討議したら、一人が用ありげに台所から出てきたり、また別の一人がしばらく買い物に出かけたり、そうこうしているうちに、なにやら刻む音、なにやら煮立つ音とともに、予測のつかぬ香ばしい匂いなども漂いはじめ、台所の中の動きがただならぬ具合いにあわただしくなったと思うと、ファンファーレの音高く(もちろん、これは料理人の心の中で鳴り渡っているのだが)本日のスペシャル・メニューがしずしずと現われる、という仕掛けの毎日を私は送っていたのです。
本日の特別料理は、ある時は「子羊の骨付き、アップル・ソース」であり、ある時は「家鴨の焙り焼、オレンジ添え」であり、またある時は「牛肉のブルギニョン、壺入り」であり「ギリシャ風マッシュルームの和えもの」であり、「キューカンバー・スープ」だったこともある。キューカンバー・スープなんていうのは、日本ではたえてお目にかかったこともないが、胡瓜の入った一見ヨーグルトのような白い冷いスープで、得もいわれず味わい深い。食べるのは一瞬であるが、調理法は複雑をきわめ、確実に丸一日かかるのです。
このような結構な毎日ではあったが、私には気に食わぬことが一つあった。すなわち、彼らが料理した後の台所は散らかり放題に散らかって、足の踏み場もないのである。
あらゆる鍋、皿、ボウル、スプーン、包丁、布巾、調味料、野菜の切れ端、使い残しの肉、卵の殻、そういうものどもが、死屍累々という塩梅で台所のあらゆる空間をおおいつくすのであって、どうもこれは気に食わない。仕方がないから、そうだ!身をもって範を垂れよう。本当の料理人は常に片づけながら仕事をする、ということを見せてやろう。
こうして私は生まれて初めて包丁を持ったのであります。忘れもしない、私はまずカレー・ライスを作ったね。料理の本を読むと、いやあ、便利なものですな、これは。「まず玉葱を紙のように薄く切り、これを大量のバターを使ってとろ火で炒める。狐色に色づいた時玉葱を引きあげ、紙の上に並べて油を切る。二、三分もすると玉葱はパリパリになりますから、これをスプーンの底ですりつぶして粉にする。この玉葱の粉がカレー粉の色と香りの基調になるのでございます」なんぞということが書いてある。なるほどやってみると、その通りになっていく。鶏のぶつ切りを炒め、じゃがいも、人参を炒め、チリ・パウダー、塩を少々、カレー粉を次次に加え、同時に鶏のスープを仕込み、炒めたものにスープを加え、玉葱の粉を一緒に煮込んでいく。いやはや、面白いのなんの。トマトを布巾で絞る、これが酸味。マンゴ・チャトニの瓶詰のドロドロの部分で甘味をつけ、最後にライムを一絞りしぼって味を引きしめる、なんて、まあただで教わるのが勿体ないようなことがすっかり書いてあって、その通りやるとその通りのものができる。これには驚きましたねえ。
傍[かたわ]ら私はどんどん物を片づけましたよ。それが目的なんだからね。要するに、片っ端から常に片づければそれでいいのさ。汚れ物というのは加速度的に増えるから、一旦溜り始めるともういけない。追いつけなくなってしまう。
ま、そういうわけで、私の料理の第一日目には今まで食べた最良のチキン・カレーとピカピカに磨き上った台所が同時にできあがったわけで、目出度[めでた]き事限りなし。そうして物事は初めが大事だ。初めに身についた習性というものは、なかなか抜けるものではないのでして、今でも女房は台所が汚れてくると私に料理を所望するのです。