「ミツバチと色 - 日高敏隆」日本の名随筆別巻44記憶 から

 

「ミツバチと色 - 日高敏隆」日本の名随筆別巻44記憶 から

 

ミツバチといえば、生物学者の頭にはすぐ、フォン・フリッシュの名が浮かぶ。オーストリアのこの生物学者ほど、実用的な意味でなくて、ミツバチの名声を高めた人はほかにいない。
かつて、西欧生理学の世界では、世界的権威だったある教授が、いくつかの実験結果から、「昆虫には色が見えない」という結論を下した。それ以来、昆虫は色が見えないことになってしまった。若きカール・フォン・フリッシュは、それに対して素朴な疑問を抱いた-「もしそうだったなら、この色とりどりの花の色には、なんの意味もないことになってしまう。昆虫は、きっと花の色が見えるにちがいない」
これがミツバチについての彼の研究の始まりであった。彼はミツバチだけを研究したのではなく、ミツバチで研究を始めたわけでもない。ミツバチとつきあいだす前には、魚そのほか、生理学の分野でいろいろな研究をてがけている。興味ふかい研究もすくなくないが、ここでは省略するとしよう。

フォン・フリッシュは、ミツバチの色彩感覚をためすのに、次のような方法を使った。屋外に置いたテーブルの上に、いろいろな色のカードを並べる。そしてその上を一枚の大きなガラス板でおおう。それから、各カードの上に一枚ずつ小さな皿を置き、たとえば青いカードの上の皿にだけサトウ水を入れておく。
やがてミツバチがやってくる。青いカードの上の皿にサトウ水をみつけたミツバチは、それを味わい、ついでそれを胃に吸いこむ。一生けんめいサトウ水をのんでいるハチの体に、フォン・フリッシュは絵具でちょんとしるしをつける。
ミツバチは飛びたって巣に帰るが、まもなくまたやってくる。同じハチがやってきたことは、さっきつけた目印でわかる。こうして何匹かのミツバチが青色の紙の上の「みつ」にしげしげと通ってくるようになったころ、カードの位置を変えてしまう。皿もぜんぶ新しい皿にとりかえる。そして、今度は青いカードの上の皿にもサトウ水を入れず、空のままにしておく。
皿をとりかえたのは、青いカードの上の皿だけにミツバチの匂いがついていたら・・・という疑いをなくすためである。さらにテーブルの上をおおう大きなガラス板も、新しいものにとりかえてしまう。そもそもこのガラス板は、下のカードの匂いをさえぎるためのものだった。「色が見えるかどうか」という実験をしているのだから、匂いの要素がまぎれこんでくると困るのである。

さて、こうしてぜんぶを新しいものにとりかえて、しばらく待っていると、まもなく、またミツバチがやってくる。印のついたハチは、カードの位置が前とは変わっているにもかかわらず、まっすぐに青いカードの上の皿におりる。
皿も新しいものととりかえられているのだから、自分たちの匂いにひかれたわけではない。サトウ水はどの皿にも入っていないのだから、サトウ水にひかれたわけでもない、カードの位置は入れかわっているのだから、テーブルの位置をおぼえていたわけではない。どうみても、「青い」色をおぼえていたとしか考えられないのだ。
口でいえばかんたんだが、この実験には何日もかかる。しかも、実験というもののつねとして、一回だけではあまり信用できないから、何回かくりかえさねばならぬ。それはたいへんな努力である。けれど、フォン・フリッシュは、同じことを、赤、黄、緑、そのほかの色についてもためしてみた。
その結果、次のようなことがわかった。ミツバチは黄色、青みのかかった緑、青のカードは、ほかの色のカードと区別することができる。赤は黒と混同する。ふつうの緑は黄色と区別できない。白いカードはちゃんと区別する場合もあり、ぜんぜん区別できない場合もあって、なにがなんだかよくわからなかった。
やがて、白いカードについてのこの混乱した結果から、意外なことが明らかになった。その白いカードが紫外線を反射している場合には、ミツバチはそれを区別するが、そうでない白いカードは、うまく区別できないのだということである。
われわれ人間には紫外線は見えないから、どちらのカードも同じように見える。けれどミツバチはそれをちゃんと区別する。つまり、ミツバチはわれわれには見えない紫外線が見えているということになる。
こうして、ミツバチは黄色、青緑色、青色、紫外線を含んだ白色のカードを区別できることが明らかにされた。
けれど、フォン・フリッシュは慎重だった。「だから、ミツバチにはこの四つの色が見える」などとはいわなかった。なぜなら、ミツバチはこの四種のカードを、「色」ではなく、「明るさ」で区別していたのかもしれないからである。
いうまでもないが、黄色いカードはたいへん明るく見える。それに対して、たとえば濃い青色のカードはずっと暗い。たとえ「色」が見えなくとも、この二つのカードを「区別」することはできるのである。そこでフォン・フリッシュは、さらに次の実験を組んだ。

実験の装置と手順は、前とまったく同じである。ただし今回のシリーズでは、どれかの色のカード一枚だけ使い、そのまわりには白から黒に至るさまざまな程度の灰色のカードをならべた。さまざまな程度の灰色というのは、ロッキード事件での「灰色高官」なるものとまったく同じ意味においてである。
もしミツバチが、「色」そのものでなく、「明るさ」によってカードを区別していたのなら、このようなデザインの実験では、灰色のカードのうちのどれかと色カードとを混同してしまうはずである。
だが、そんなことはなかった。黄、青緑、青、「紫外」の色カードを、ミツバチはどの灰色のカードからも区別した。つまりミツバチは、これらの色をまさに「色」として見ていたのであった。ただ、赤いカードは、前にも述べたとおり、黒と混同した。ミツバチにとって、赤という色は存在しないのだ。あたかも紫外色という色が人間には存在しないのと同様に・・・。
このフォン・フリッシュの研究は、ミツバチにも色が見えるということを証明したにはとどまらない。それは多くの昆虫の色彩感覚についての研究の大きな足がかりとなったばかりか、われわれ人間がなぜ色を識別できるかという研究にも、大いにかかわってくることになった。

人間がなぜ色が見えるかということについては、古くから二つの説がある。一つは一八〇七年(というから、おそろしく古い)にトーマス・ヤングが提唱し、一八五二年(これまた一〇〇年以上昔の話である)に物理学者として有名なヘルムホルツが改訂した、いわゆる「三色説」である。人間の眼には、赤、黄、青に感じる三つの要素があり、それぞれ赤、黄、青の色感をおこす。この三つの基本色感の混合によって、さまざまな色感が生じ、その三つがすべてなければ黒、ぜんぶが均等に混合すれば白と感じる。大約すればこういう説である。
今日われわれはほぼこの説にそって色というものの説明を受け、従ってそう理解しているが、じつは古来これに対立して、へーリングの「四色説」または「反対色説」というのがあった。眼には、白黒物質、赤緑物質、黄青物質という三つの物質があって、それぞれの物質が分解するときには白、赤、黄、合成されるときには黒、緑、青の色感を生じるという説だ。この説によると、白と黒のほかに、赤、黄、緑、青という四つの基本色が存在することになる。
色が満足に見えるなら、三色だろうと四色だろうと、どっちだっていいような気もするが、研究者にとってはどうでもいいことではないらしいし、それに、色盲を治そうとするならば、これはやはり重大問題である。
こういう説のつねとして、どちらにも確固とした根拠があり、一概にどっちが正しいという軍配はあげられぬまま、一〇〇年以上の年月が過ぎ去ってしまった。けれど、今ではヤング=ヘルムホルツの「三色説」のほうが、どうやら真に近いと考えられている。話がだんだんややこしくなってくるから、くわしいことは一切省くことにするが、そのきっかけは昆虫、それもミツバチの色彩感覚の研究から生まれたのである。

その後フォン・フリッシュは、またまたミツバチにおいて、人びとを驚嘆させる発見をした。有名なダンス言語の解読である。
ある場所にサトウ水を入れた皿を置いておくと、そのうちに一匹のミツバチがやってきて、サトウ水をのみこみ、巣へ帰ってゆく。まもなくそこには、急にたくさんのミツバチがやってくる。最初にきたハチがみんなをひきつれてきたのかとも思えるが、そうではない。フォン・フリッシュは最初のハチにちゃんと印をつけておいた。だがそのハチはきていないのである。
では、最初のハチが巣に帰って、サトウ水のありかをほかのハチに教えたのだろうか?いや、そんなことはありえまい。ハチが仲間にものを教えるなんて・・・。フォン・フリッシュは困惑した。
けれど、彼は長年の間、ミツバチの生活をよく見ていた。彼の前にも、養蜂家の人びとの長い経験にもとづく知識が蓄積されていた。たとえば-みちをもって巣に帰ってきたミツバチは、巣に入るとあたかもダンスでもするように一定の足どりで歩きまわる。それは「収穫ダンス」とよばれていた。
このダンスになにか意味があるのかもしれない。フォン・フリッシュはさっそく実験にとりかかった。
サトウ水を入れた皿という人工の蜜源(天然の蜜源はもちろん花である)を、まず巣の近くに置く。一人は蜜源のところで見張っていて、やってくるハチに一匹ずつちがう印をつけてゆく。もう一人は、観察用の巣箱の前に陣取って、帰ってきたハチがどのように振舞うかをみつめ、記録する。
やがて、印のついたハチが帰ってくる。実験用に置いた蜜源からみつをもって帰ってきたハチだ。さてなにをするだろうか?
ハチはかなり早い足どりで、輪を描くように歩く。フォン・フリッシュはこれを「ロンド(輪舞)」と名づけた。ロンドを踊るハチのまわりには、ほかの働きバチが近寄ってきて、ダンスをしているハチの体に触角をぴたりと押しつけながら、その動きを見守っている。そしてまもなく、次つぎと巣から飛びだしてゆく。 
こうして飛びだしていったハチが、ほどなく実験用蜜源のところに姿を現わすこともわかった。ミツバチはほんとうに蜜源のありかを仲間に教えているのである! 
ではどのようにして教えるのか?ネコがネズミのとりかた、殺しかたを子ネコに教えるとき、けっして抽象的には教えない。いや、教えないというのでなく、抽象的な教えかたはできないのである。現物のネズミが目の前にあるとき、母ネコはそれをとらえてみせ、殺してみせる。それを子ネコは見ておぼえる。現物なしに教えることは不可能なのだ。
だがミツバチにはそんなことはできない。現物の蜜源を巣のなかへもってくることはできない。できるのは、みんなの先頭に立ち、みんなをそこまで、ひきつれてゆくか、あるいは、なにか匂いのあとをつけて帰ってきて、この匂いという「現物」でみんなに教えるかのどちらかぐらいである。

ミツバチにも種類が多い。なかにはこの方法で仲間に蜜源を教えている種類もある。けれど、どういうわけか知らないが、人間が飼いはじめた、そしてそのためにフォン・フリッシュが研究することになったミツバチは、そんな方法はとっていなかった。
フォン・フリッシュの本、たとえば『ミツバチの生活から』(岩波書店刊)にくわしく書いてあるように、ミツバチは例のダンスをことばに使っている。蜜源が近いときにはロンドを踊り、巣からほど遠くないところに蜜源のあることを教える。ほかのハチは巣から飛びだしていって、巣の近くを探しまわり、蜜源を発見する。そのときには、ダンスをしていたハチの体についていた蜜源つまり花の香りが手がかりとなる。二度目にそこへゆくときには、花の色をおぼえていて、遠くからその花へ直行する。花の色も香りも、意味のあるものであったのだ。
蜜源が遠くなると、そこから戻ってきたハチは、例の「8の字ダンス」を踊る。これはもう少し親切にいうと8の字でなく、 の形である。中央の直線部分の方向が、蜜源の方向を示し、ダンスのスピードが距離を示す。
このことがわかったとき、フォン・フリッシュは、われながら自分の結論を信じられなかったそうである。ハチにそんなことができるのだろうか?昆虫がいわば言語にも匹敵する伝達手段をもつなどということが、ありうるのであろうか?
けれど、その解釈については諸説があり、研究や反論が続けられているとはいえ、フォン・フリッシュが描きだしたミツバチの姿は、花から花へ無心に飛びまわり、巣箱のまわりでブンブンいっているミツバチそのものに、きわめて近いものらしく思われるのである。