(巻三十六)杞憂あり明けて朝来て毛布干す(鈴木明)

(巻三十六)杞憂あり明けて朝来て毛布干す(鈴木明)

2月3日金曜日

曇天。朝家事はなし。転居以来7年経つが旧住所からの郵便物の転送願いをまだ出している。さすがにめったに旧住所への郵便物はないが、昨年末には高校時代の級友から年賀欠礼の葉書がそちらに送られて転送されてきた。

そんなわけで、今年も転送願いを出すのだが依頼主の身分証写しの貼付が必要となった。その他にもトラブル防止のための申告欄が増えているが、悪意に満ちてきた昨今、世相の反映ということだ。

木と生まれ俎板となる地獄かな(山田耕司)

そんなわけで、健康保険証の写しを取りに生協に出かけたのだが、細君が無くすな、忘れてくるなとうるさい。もっとも彼奴に言わせれば、この前マイナンバーカード通知票のコピーをコピー機に忘れてきたのだからうるさく言うのも当たり前でしょ‼ということになる。少し呆けが始まってきた亭主に対する当然の対応ということか⁉

すこしづつ死す大脳のおぼろかな(能村登四郎)

この任務を遺漏なく完遂し、昼飯を喰う。

さて、散歩はどうしようかと迷う。風はないが冷え込んできて3時からは雨か雪との予報だ。でもクロちゃんとサンちゃんだけにはご機嫌を伺っておこうと出かけた。クロちゃんは段ボールのシェルターにいたがサンちゃんは不在。

その辺を一廻りしてただ寒し(高浜虚子)

使わずに置いてあるWindows8のPCを使ったみた。新しいsurface goはアダプタを挟まないとusbが使えない。BBCpodcastのICレコーダーへのダウンロードが面倒なので古いPCでやってみた。特に問題なくダウンロードできたが弊害があるのだろうか?

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

元々料理一般家事が好きではないタイプだから大した食い物を出しては来ないが、それでも家に居て温かいものが食べられるのだから大いに幸せである。今晩は鶏手羽と大根のスープと焼魚だ。そんなもんだから、幸せなうちにさっさと逝ってしまいたいって訳さ‼

鍋物で味わうマイホームの幸せ - 檀一雄」中公文庫 わが百味真髄 から

を読み返してみた。

寄鍋や豊かにくらす月はじめ(黒坂紫陽子)

鍋物で味わうマイホームの幸せ - 檀一雄」中公文庫 わが百味真髄 から

そろそろ、チリや、鍋や、ヨセ鍋の好季節になってきた。

> 中国なら「火鍋子(ホーコーズ)」。朝鮮なら「神仙炉」。フランスなら「ブイヤベース」。日本なら「ヨセ鍋」などなど。

まったく、鍋物ほど、手っ取り早く、おいしく、暖かく、季節をこっそり投入して、千変万化の、その土地土地の、おいしさを満喫できるものはない。

ことさら「キノコ」が出まわる時期の、日本の、さまざまの鍋物にありつくと、またの世も、またまたの世も、人間に生まれ変わって、日本の山々、津々浦々をうろつき歩いてみたいものだと、そんな大それた気持ちにさえなってくるから不思議である。

鍋物はシャレたお店なんかで喰べるもんじゃない。これだけは、いかにモノグサ亭主でも、会社の帰りや、昼休みに 、ちょっと魚河岸の周辺でもうろついて「マダラ」でも「スケソウダラでも、なんでもよろしい、一尾ぶらさげて帰るぐらいの心意気がなかったら、喰うことなどあきらめて、人工栄養食かなにかで命をつなぎとめながら、一生働いてみるよりほかはないだろう。

さて、モノグサ亭主の、その細君も、亭主が「タラ」を買ってくると宣言した日ぐらい、髪をくしけずること入念に、お化粧は早めにすましておいて手を洗い、もしまだ買ってなかったら、少し大きめの土鍋一つぐらい、ヘソクリをはたいて、用意しておきなさい。

> そこで八百屋に出かけ、白菜とネギ、大根と蕪。ついでにミツバかセリを一束きばってみるか。赤トンガラシを一本(一本だけは買えないから一束ということになるが)、キノコは松タケ の前を行ったり来たり、バカバカしいと思ったら、思いきるのが賢明だ。養殖の千本シメジを一袋六十円かそこいらで売っているし、なに、生シイタケが安いではないか。それとも、ナメコにするか。いやいや、いつか、貰った乾しシイタケでもあれば、上等に過ぎる。

ユズか、スダチか、なかったらレモンを一個。あとは、豆腐屋をまわって、豆腐とシラタキを買い求め、野菜類の下ごしらえを入念に、あとはモノグサ亭主の御帰館を待つ。

ところで、ダシコンブはありましたか。なければ急いで、乾物屋に走り、ほどよい大きさに切った昆布を一枚、土鍋の水の底に沈めておこう。

それでもモノグサ亭主がまだ帰らなかったら、腹イセのつもりで、大根をまっ二つに切る。大根の皮をむいて、切口からま っすぐ縦に箸を通し、その穴の中にタネを水洗いして抜きとった赤いトンガラシを、箸を使って、上手にさし込む。そのトンガラシ大根を細かな目のオロシ金にあてながら、心静かにモミジオロシをつくってゆこう。ほかには薬味のサラシネギと薄くそいだユズの皮だけで充分だ。

デカシタ。モノグサ亭主が、スケソウダラを一本ぶらさげて帰ってきたぞ。そこで、大いに、おだてたり、すかしたり。ついでのことに、タラをブツ切りにしてちょうだいよ、といってみるのである。

「うまく切れねえ」とモノグサ亭主が答えたら、

「男の手切りでなくちゃ、チリのタラはおいしくないんですって.....」

とやるのもいい。な-に、タラのブツ切りならモノグサ亭主の腕前で充分だ。マコやシラコが出てきたら 、これは大切に洗って魚といっしょに皿にならべる。

そこで、土鍋のガスに点火する。シラタキを入れる。タラを入れる。煮える順序に野菜を入れ、サラシネギと、モミジオロシを取り皿に入れて、スダチやユズやレモンの酢醤油で、タラチリをタラフク楽しむしだいである。あらかじめ、塩と醤油でチリ鍋に薄味をつけておくのも悪くない。

酒を二本でも、添えたりしたら、亭主はにわかに感奮興起して、毎週でも、タラを買って帰るような変異がおこらないともかぎらない。

もちろんのこと、北陸から、東北、北海道の現地で入手できるタラの類は、その鮮度が桁違いだし、マツタケ、シメジ、キダケ、ミミタケなどなど、さまざまの香り、舌ざわりのキノコの類がチリの伴奏をやってくれるから、その

おいしさが、倍加するのはあたりまえの話である。

鮮度の新しい、シラコやマコは、チリのなかで、生々躍動するような心地さえされる。

フグのチリ、タイのチリ、タラのチリ、アキアジのチリ、ソイのチリ、ハタハタのチリ、など。まったくチリ万歳で、そのチリの中に、松タケだの、マイタケだの、シメジだの、入ってくれたら、まったく贅沢を通り越してしまったようなものだ。

これを帆立貝の貝の中で、ショッツルをたらし込んでつつけば、ショッツル鍋であり、シュンギクだの、セリだの、一瞬の匂いで舌を洗うような心地のする野菜の類を、あいだに混じえて喰べたら、秋夜のたのしみは尽きることがないだろう。

チリや鍋は、まちがっても、高級料亭などで、深沈と、かしこまって、喰るも のではない。

ことごとく現場の混沌をよせ集めたような料理だから、タラをブラ下げてきてくれた漁師があり、キノコを拾いとってきてくれた青年あり、酒を抱えてきてくれた友人があれば、じゃあどこかのオババの炉端でも借りるかと、みんなゾロゾロとオババの家に上がり込む。その炉端につるした鍋の中に、秋のしあわせをみんな放り込むようにして喰るのが一番愉快でうまいだろう。

だから、キリタンポなども、秋におごる日本的鍋物のもっとも優秀なものの一つである。

比内鶏(秋田県の比内地方の鶏)が落ち穂を拾った後などと、そんな贅沢をいわなくても、そこに鶏のブツ切りがあり、マイタケがあり、ネギがあり、ゴボウがあり、セリがあり、豆腐とコンニャクでもあったら、もう日本一

の果報者になったような気持ちになってよろしい。

米だけはなんとか新米を誰かにかついできてもらって、ウルチ九なら、モチゴメ一。これをたき上げた瞬間、スリ鉢にでもうつして、スリコギでトントンとねる。

半分つきあげたような餅を、竹の棒に、竹輪のように巻きつけて、これを炉の火であぶるわけだが、あんまり柔らかくゴハンをたくと、焼く間に、こぼれ落ちる危険がある。さて、こんがり色のついたキリタンポは竹からはずして、切るのもよし、手で折るのもよい。

別に昆布や、酒や、ミリンや、トリガラや、醤油などで、お吸い物よりちょっと濃い目の好みのダシをつくり、このダシの中に、トリ、コンニャク、豆腐、マイタケ、ササガキゴボウ、ネギ、セリ、それから肝腎のキリタンポを放り込んで、炉端でつつき合うのである。

ソ ダ火はパチパチとはぜるだろう。紅葉は赤く、酒は五体にしみわたり、キリタンポは、崩れるように、口中にとろけるわけである。