「金の話 菅原健」随筆集化学の小径 から

 

「金の話 菅原健」随筆集化学の小径 から

 

キンであれカネであれ、とにかく金の話であるといえばすぐ飛びついてくる人があるかと思うと、ある人は賤しいことと眉をひそめる。
昔学生の中にも金縁眼鏡をかけたり金側時計をもったりするものがあったが、ことさらそれに対抗して鉄縁眼鏡をかけニッケル側の時計を誇るものもあった。かく記す筆者も後者の列に加わった一人である。学生が金のものを持つのはニヤけていやな気がするが、鉄縁やニッケルを得意にしたのもちとくすぐったい。だが自分は今でも金で装った茶碗やら花瓶は好まない。学者の根性曲りと笑われるかもしれないが。
しかしたしかに金の色は温か味のあるよい色である。それは太陽の有難い光を永遠に保存する唯一の金属であり、やたらには手に入らぬ金である点で偉力や権力を象徴するのにふさわしいものであるという説に異議はない。
一体、金のことをラテン語ではアウルムとよび、金の元素記号Auが用いられるのもここから出ているのである。そうしてこのアウルムはアウロラに発している。アウロラは朝焼を表徴する女神で、ギリシャではエオスと呼び、海の神オケアヌスの寝床から日の神ヘリオスに先き立って起きて、四頭立ての馬にまたがって東の空を駈けめぐり、朝のくるのを告げる神であったのである。
古代人にとっての夜の闇から解放されて日の光を浴びることが、どんなにか待ち遠しいものであったろう。その貴い日の光の色を不変に保持する金を重んずるに到ったことは、この名称の由来からもよく想像されるのである。
エジプトのピラミッドには窓孔が空いていて、それを通して一年に一度あるシリウスという星の光が真直ぐに穴の奥に安置された王侯の柩を照らすように仕組まれているという。まことに神秘的に話である。その柩の傍に袋に収めた金が幾つも並べられてあった。袋には金の産出地の名が書き込まれていた。ヌビヤというのはことに有名な当時の金の産出地であった。金の歴史はまずこの辺から説き出すのが順序であろう。

金は硬い石英の間に脈をなして入っているが、今日のようにさく岩機もなければ火薬もなかった昔は、脈の上に火を焚いて石英をだんだんにはじかせて金を採ったものと聞く。通気の悪い鉱内で火を焚いて石をはじかせるこの仕事は、どんなにつらいものであったろう。エジプトでは戦争で捕った捕虜を奴隷にしてこの難事業にあたらせたものである。体力の強いものは金の採掘自体に、老人や子供は石運びに使われた。仕事に堪えかねてにげだすものを見張るためには鉱の口に張り番を立たせた。張り番には言葉が通じては同情心が起こる危険があるというので、全く異なった土地から捕えてきた言葉の通じない別の捕虜を向けたのだという。
こうして金の蓄積が行なわれて行ったのであるが、そのつぎには金でないものを金に変えたり、品質の悪い金を良質の金に変えようという考えが起こってきた。この考えはとうとう五、〇〇〇年二〇世紀の今日までいろいろな形でつづけられてきたのである。
今日では金そのものの本質がわかっているから、質の悪い金というのは混じり物のある金であり、銅や銀を混ぜたものには一四金だとか一八金だとか混ぜものの含有の度まで示されている。しかし金自体の本質が明らかでなかった古代には金を全く含まない、しかし外見が金に似た輝きや色をもった、例えば亜鉛や銅の合金のようなものをも品質の悪い金だと見て、それを何とかして良質の金に変えようという努力が払われたのである。恐らく銅自身をも金の一種として適当な取扱いによって金に変え得るものとしてその変化が試みられたのである。
そうした努力の根底にはつぎのような考えも横たわっていたのである。金というものは黄色という性質と輝きという性質を併せ具えた金属である。そこでそういう性質をもった二つの物質を適当に調合したならば金が得られるであろうというのである。金属の輝きをもち、しかも液体である水銀、それに黄色で火をつけると青い炎をあげて燃える硫黄、この二つのものに古代人は特に何か神秘的な魔性を感じたようである。そこでこの二つの調合によって金を作り出そうという試みが早く行なわれたりしたのである。

こうした試みが積み重なってだんだん含有量の少ない中から実際金分の高いものを作り出す方法が生み出されたり、金ではない金まがいの合金をいろいろ作り出す方法も生み出されてきたのである。それらの処方は秘法として言葉で記す代わりに符諜のような文句と図で表される。例えば「王または獅子を飢えた灰色の狼に呑ませる」とか、「黒い鴉が孔雀をはらみ孔雀は白鳥をはらみ白鳥は雛をもった不死鳥を生む」といった表現である。
こうした術を錬金術、その術をもったものを錬金術者といったが、錬金術は中世を通じて一八世紀の中葉過ぎに及んだものである。
錬金術者はしばしば王侯の庇護の下にその術を練り、王侯はそれによって軍資金の獲得を夢みた。多年寄食しながら何ら成績の挙がらぬ理由で放逐を食う錬金家もあれば、誤魔化しを食わして逆に王侯から多くのものを搾り取った不届者もある。どうやら成果らしいものを挙げた錬金家は秘法を他に漏らしはしないかとの疑の下に命を召し取られるといったこともあったという。いずれも金がもつ魔性のいたずらである。
面白いことには、この錬金秘法の追求ということが人類のもう一つの欲望をみたすための秘法の追求に結びついたことである。もう一つの欲望というのは不老長生の薬である。東洋でも支那の天子が不死の仙薬を求めて東海の島に使を立てたという話があるが、ヨーロッパでも同じく前に述べたように、錬金法が秘法として符諜によって伝承されるとともにその解読について、またその追求について合理的あるいは科学的な道からそれて、荒唐な思索の飛揚へ脱線してこの不死薬追求の方向へ延びて行くということも起こってきた。錬金の符諜から出た思索産物に哲学者の石とか大神秘(ミステリウム)とか大エリクシールとか呼ばれる魔力を具えた観念的物質が生み出されて、それの功徳の一つとして不老長生の薬が得られるという思想を生み出して、錬金家の仕事にも一つの面が与えられたのである。
錬金術は近代化学の母床となった。化学という学問は金と不死という二つの人間の欲望の夢に乗って発達してきた学問であり、この欲望こそ化学発達の恩人であるとの結論も一応出てきそうである。だがその結論は必ずしも正しくない。錬金執着のために正しい化学への進展が大変妨げられた点もあるのである。
それはとにかくとして、長い錬金術時代につぐ燃素論時代というのを通って、今からおよそ百七、八十年前フランスにアントアーヌ・ラヴォアジエーという学者が出て燃焼の理論というものを確立することになり、はじめて元素というものの本性が明らかになった。金そのものは一つの元素であって、元素は不変のもの、他のものからそれを作り出し、他のものにそれを作りかえることはできないものという考えがはっきりして、ここに一応錬金の夢に終止符を打つことになったのである。

ところが学問はそう簡単なものでなかった。今から六〇年近く前、一八九八年に有名なキューリー夫妻は放射性元素ラジウムを発見して、ラジウム元素がこわれて他の元素ができることを明らかにした。そして放射能という現象はこの元素の破壊に伴うものであり、元素は他の元素に変わり得るものであることを示したのである。ただしこの崩壊は自然に起こる変化であって人の力によって左右できる変化でないと信ぜられた。したがって元素の転換は事実であっても、人の力で自由にそのてんかんができるとは思えなかったのである。
ところが、一九一四年になるとイギリスのラザーフォードという学者が、窒素ガスにα線というものを当てて窒素原子をこわして水素を得ることができることを発表した。こうなると元素は人力によっても破壊できるのである。一つの元素を他の元素へ人間の力で転換させる途が開いたのである。
それで錬金の夢は再び新しい衣をまとって学問の舞台に躍り出たのである。新しい錬金術、それは水銀の原子に強力ないわば砲弾を打ち込んで、それをこわすことによって金の原子に変えようということであった。何の故に水銀が選ばれたか。それは古代人を魅惑に誘った同じ水銀の魔性であったろうか。
原子の構造についてただ今は驚くべき多量の知識が蓄積されたが、その原子構造の基本観念をいち早く世界の学会に提示したのは日本人であった。最近物故されたわが国物理学界の耆宿、長岡半太郎博士がその人であったのである。博士は原子が陽電気をもつ核の囲りを電子が回っているものであることを最初に唱えた。それは日露戦争の前年一九〇三年のことである。
この博士の発表の後、だんだんと原子の構造がはっきりしてきたのであるが、水銀原子はその構造からそれをこわして金に変えうる最も大きな可能性をもつと判断された。日本では長岡博士、ドイツではミーテ博士がその破壊研究を試みた。今から二四、五年前のこと、東京にある今日の科学研究所、当時の理化学研究所でそれが成功したと報ぜられた。同時にドイツでも成功したと発表された。ドイツでも日本でも一時新聞記事を賑わしたものである。筆者自身も長岡先生の得られた金を確かに顕微鏡の下に見たのである。しかしこの話は日本でもドイツでもその後そのままになってしまった。金が得られたことは事実であるが、それは水銀に溶け込んでいた微量の金が用いた方法によって分離したものであったらしい。二〇世紀の錬金の試みはこれで失敗に終わったかのように見えたが、それは決してそうではなかった。後に述べるようにこういう試みは金以上の金をやがて生み出す途になったのである。他元素の金への転換とは別に、金獲得の試みが近代の化学知識に基づいていろいろ試みられたことも注意に価する。

第一次世界大戦に対して課せられた賠償はドイツをひどく悩ませた。ドイツの化学製品、ドイツの精密機械製品ね莫大な輸出も容易にこの困難を解決してくれない。空中窒素の固定の成功によって第一次大戦のスタートを切らせたといわれ、自らはそうでない、戦争開始後にそれに成功したのだと主張した中心人物故フランツ・ハーバー博士は、莫大なる海水の中に含まれる金の経済的採取をもってドイツの窮境打開の一方法としようとして、世界各地の海水を集めて金含有量の測定をした。前東北大学教授富永斉博士は当時血気盛んな青年学者としてハーバー博士の下に学ばれたが、博士は帰朝の途次薬を入れたたくさんの瓶をハーバーから預かった。地中海、印度洋、東支那海と横浜に到着までの航程に、博士は日に三回託された瓶をリュックサックに詰めて上甲板からいくつかのはしごを下りて船底の海水栓から壜に採水した。そしてそれをハーバーの下に送り返した。ハーバーはそれを徹底的に研究した。だがその結果は経済的採算の不成立を結論するに終わった。
同じく三〇年くらい前、日本のある老人が藁から金を取るということを唱えて新聞の話題になり、著名なM博士は余りにそれに引き込まれ迷惑な立場に立たされたという事実もあった。
長岡博士、ミーテ博士の水銀の還金は不成功に終わったが、いろいろな元素を壊して他の素元に換える試みはぞくぞく成功して行った。ことにそのために必要な強力なサイクロトロンというような機械も発明された。そうしていろいろの元素を壊し、いろいろの元素に変えることができるようになったが、ちょうど今から一〇年前一九四六年に一つの元素が発見された。いや一つの元素が、それは地球上でまだ存在の証明されていない元素が、そういう方法で作り出されたのである。
それまで原子破壊でできた元素はいずれも地球上に存在したものか、それの同位元素と呼ばれる兄弟たちであったのである。ところがここに作り出された元素は、兄弟も知れていない新たな元素であった。人の力で誕生した元素であることを記念してテクネチウムの名称が与えられたのである。そうした新しい元素の誕生はその後相ついで行われた。元素の破壊、破壊というが、大きな元素が砕かれて小さな元素になる変化だけでなく、親元素よりもっと大きな質量をもつ元素ができることも注意されねばならない。原子爆弾で有名になったプルトニウムやネプテュニウムなどの元素はこういう道を通って作られたのである。

原子力の偉大さは今ここで述べるまでもない。これを利用したならばどんな恐ろしいことも起こってくるだろうし、またどんなに素晴らしい人生への貢献にもなろうというものである。
また原子破壊の方法がもたらせたものは原爆元素だけでない。たくさんの放射性同位元素(ラジオイソトープ)の発見とその利用の途が開かれた。あるものは難病の治癒に用いられ、他のあるものは種々なる化学反応の仕組みを探求するために用いられるようになった。また人間の体の中に入ったものが
どんな道を通りどんな器官や組織に集まりどんなに働き、またどんなに早く排泄されるかというような問題を解決するのに、われわれはそれらの元素のもっている放射能を頼りに検べて行くことができるようになってきた。硫黄のラジオイソトープとか燐のそれとがアメリカでたくさん作られて、そのあるものは短時間で放射能を失うために飛行機で運ばれて日本の各地の研究室で研究にも使われている。
思えばこれらの元素の出現は五、〇〇〇年来の錬金の夢が現実になったものである。得られたものはあの黄色の金ではなかったが、その人生への功徳は黄金のそれをはるかにしのぐものであるとともに、またそれだけにその悪魔性も素晴しいものである。問題は人間がこれらの魔性元素を操りきるか、それともそれの餌食になってしまうかということである。私は結局人間はそれを操り終わらせるものであろうと考えている。
先夜ラジオの文化講演を聞いていると、経済学者と婦人のアナウンサーが貨幣について対談をしていた。その中で貨幣の基準には値打ちのあるものが選ばれねばならない。そこで金が選ばれるのであるといっていたが、その金の値打ちがどこにあるかということの説明がなかったのは残念である。
財とか貨とかいう字には貝がついている。われわれは金や銅や銀の貨幣の前に貝殻の類が用いられたことを知っている。それはある人類の発生に関する原始信仰が付随していたことも知っている。金が古代人に示した魅力についてはすでに述べたとおりである。今日われわれが金に関してもっている値打ちには、こうした古代信仰の匂いが多く漂っているように思われる。実際利用という面を考えたら金にはどんな値打ちがあるだろう。なるほど万年筆には金ペンの方がよい。虫歯にかぶせるには金がよい。だが金の皿に載せた金の林檎はお伽話の主人公でなければ食べられない。われわれの生活の中で金なしではどうにも動かせぬという面を見出すことはむしろ困難である。金は利用価値の最も少ない金属であるといえるのである。いやその金が実用的でない点が貨幣の基準にとり上げられるにふさわしい条件になっているのかも知れない。
金の重さということも考えに入れる余地があるようである。
かつて筆者は東京の銀座通りの人混みの中で、ある貴金属店から煉瓦大よりちょっと大きいかと思える金塊を六つばかり持ち出してトラックに積んでいるのを見たことがある。トラックには蓆を敷いてその上に六つの金塊をただ置いただけである、なるほどと思った。このくらいの大きな金塊になると、一人の手ではちょっと運べないくらいの目方があるのである。ちょっと引攫って持ち逃げはできない。重くてかさばらない。これも確かに大量の金額を処理するに適した金の性質である。
だが何といっても存在量がすくなく、だが適当に人の目にちらつく量があり、またその産出量に変動が少ないことは貨幣の基本として適当な条件になっているのであろう。それだけにもし簡単な元素転換でどしどし金ができるようになれば貨幣基準としての資格をたちまちにして失う危険も起こってくるわけであり、錬金はやはり夢に止った方がよいとの結論も出るであろう。
とにかくこうして見ると、今日人間が金においている価値というものには合理的に割り切れる面と恐ろしく旧い伝習的な面とがあるようである。これは金に限ったことではない。われわれの生活や考えのあらゆる面においてそうなのである。切りすてたい、また切りすてねばならぬ旧い習慣で、どうしても切りすてかねるものもあれば、新しいものを求めるの余りに意義深い大事なものを、旧いという名のもとに犠牲にしてしまう場合が少なくない。ものの真に正しい価値判断は難しいものである。
(昭和二十六年二月)