「江戸の、時間感覚・金銭感覚 - 杉浦日向子」河出書房新社 お金がない! から

 

「江戸の、時間感覚・金銭感覚 - 杉浦日向子河出書房新社 お金がない! から

「時は金なり ~Time is money~」といえば、「時短」とこころえるのが、現代の発想です。それだから、東海道新幹線での東京~大阪は、割高でも「ひかり」より「のぞみ」を得策とします。つまり、「ひかり」なら三時間、「のぞみ」なら二時間半。その三〇分を、九百五十円で買うわけです。では、江戸ではどうでしょう。
首都・江戸に支店を持つ大阪の大商店では、定期的に、「登り」といい、江戸で働く従業員(上方出身者)を、本店への挨拶の名目で福利厚生を兼ね、単身で帰省させます。二カ月程度の長期休暇で、江戸~大阪を往復します。途中の宿場ごとに、その土地の名物を頬ばったり、ときに飯盛女をからかってハメをはずしたり、襟を正して寺社仏閣に詣でたり、家族の顔を思い浮かべてはあれこれ土産を物色したり、同宿した道連れと意気投合して、酔っ払って失敗をやらかしたりしつつ、てくてく歩いてゆきました。生涯に数度もない、思い出深い里帰りです。往路約二〇日、帰郷滞在約二〇日、復路約二〇日。その六〇日内外の間は、店をはなれた、ひとり旅だから、上司や部下の目を気にすることもなく、素の自分になれるのです。この長い自由時間は、まさに、お金では買えない命の洗濯、浮世の垢を洗い流す人生のボーナスにあたります。再会のだんらんでの、江戸の見聞や旅路の風景は、身内のみんなをドキドキワクワクさせ、それはたぶん、繰り返し語り継がれ、いつまでも、たくさんの人々をたのしませたことでしょう。
平成の「のぞみ」の車内には、二時間半の間、ノートパソコンのキーボードをたたき、車内販売のミックスサンドをウーロン茶で押し込み、携帯のベルに応じるビジネスマンがいます。企業戦士なら、日に二回の東京~大阪出張も辞しません。朝出張して、夕にはダイニングにすわっているお父さんに、道中のドラマや、珍しい土産を期待するのは酷。「のぞみ」の、往復一時間の時短がもたらすのは、すこしだけ、はやい帰宅。
「のぞみ」の三〇分の時短の価値は、江戸人にとって理解不能のものです。たとえば、江戸~大阪で、かならず渡る大井川。それがひとたび増水すれば、橋のなかった当時、四、五日の「川留め」はザラ。慶応四年には二八日間という記録もあり、二カ月の予定が三カ月にのびることすら起こりえます。そんな中での三〇分など、流れる雲を見上げる一服にすぎません。

江戸の時間は不等時法です。日の出から日没までを六等分して、昼の一刻とし、日没から日の出までを同じく六等分して夜の一刻としました。つまり、一刻の長さが、昼夜で異なることになります。そればかりか、昼間の長い夏と夜長の冬では、昼の一刻に四〇分ほどの差が生じます。季節にそって、時が伸び縮みしました。日常で使う、もっともちいさな時間の単位は「小半時」、すなわち四分の一刻で、およそ三〇分に相当します。それ以下の時の区切りは、かれらの生活での出番がなかったのです。電子レンジで五〇秒加熱するとか、一〇〇分の一秒を争うという、わたしたちにとって見慣れた「日常」は、かれらにとって奇異な「非日常」に映るでしょう。
わたしたちにとっての「良い時間」とは、一定間にどれだけ多くの物が詰め込めるか、「時短」と「効率」を問うわけですが、かれらにとっての「良い時間」とは、感動の有無、ああおいしかった、たのしかった、うれしかった、そんな実感の持てたひとときを指し、「仕事がどんどんはかどった時間」は単なる「忙しかった」にすぎないとみなすのです。
「早起きは三文の得」とはいうものの、「四文払っても朝寝がしたい」が江戸の本音。銭形平次親分がクライマックスで投げる、青海波[せいがいは]文様の穴あき硬貨は四文銭。「四文屋」という屋台は、煮もの揚げもの焼きもの、なんでも一つ一コイン(四文)で売りました。小僧のこづかい銭がターゲットの、もっとも手軽なファーストフード屋。早起きしたとてたかが三文、「四文屋」の一つも買えやしない。それなら、ぬくぬく寝坊したが得というもの。
「一両は現代のいくらですか?」と問われます。これがむつかしい。「サンピン侍」とは、年俸が現金三両と、大人一人が一年間に食べる量の米を現物支給される下級武士のことですが、それでも一家を養う上は、一両は六〇~八〇万円くらいあってほしい。ところが、長屋の連中が「カカアを質に置いてでも買わざあなるめえ」といきまいた初鰹一尾に、三両の値がつくときけば、高くつもっても一両はせいぜい六~八万円ほどと思われます。そもそも、現代の貨幣価値に置き換えようとすること自体に無理があり、江戸では、時が、季節によって伸び縮みするように、金も、生活の場面に応じて軽重が変化すると考えるほかはないのです。
現代の「時」と「金」に求められるのは「早さ」と「量」で、どちらも数字で優劣を並べることができます。それにたいして江戸の「時」と「金」に求められるのは「質」と「使い方」で、そこにはひとりひとりのライフスタイルが反映されることになり、数値には変換できません。
「多忙」を誇示する現代と、「閑雅」を標榜する江戸。たまには小半刻、雲をながめて現代人をサボるのも、オツなもんです。