「樋口一葉の多声的エクリチュール・その方法と起源(その「1」) - 倉数茂」ハヤカワ文庫 異常論文 から

 

樋口一葉の多声的エクリチュール・その方法と起源(その「1」) - 倉数茂」ハヤカワ文庫 異常論文 から

【冒頭-作品紹介】
樋口一葉を論じることが現実そのものに影響を与えてゆく本作は、読むことは読むことのみにとどまらず、生きることは生きることのみにとどまらず、死ぬことは死ぬことのみにとどまらないという人間の本質的な中間性を、〈異常論文〉という中間的な形式によって描出している。小説という表現形式においては一般に、「説明」することは忌避されるが、本作においては説明とそうでないものは区分けできない。説明は説明の中にとどまりえない。本作の語りの中では、つねにすでにあらゆるものが溶け出し続けている。余談だが、本作で言及されている文献はすべて実在するものであり、引用は正確で事実に基づくものであり、怪談パートを除けば査読を想定した正常な論文として書かれている。

くらかず・しげる。作家、日本文学研究者。2011年『黒揚羽の夏』でデビュー。『名もなき王国』(ともにポプラ社)で第39回日本SF大賞、第32回三島由紀夫賞にダブルノーミネート。研究書としては『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)がある。近刊に変格ミステリ『忘れられたその場所で、』(ポプラ社)。

 



一八七二年(明治五年)に生まれ一八九六年(明治二九年)に没した樋口夏子[※1]、筆名一葉は、二四歳と半年という短い生涯のあいだに残した二二篇の小説と日記によって、明治文学最高の作家という評価を揺るぎないものにしている。
とりわけ『大つごもり』、『たけくらべ』、『にごりえ』といった傑作を次々に書き継いだ死までの短い期間は、その旺盛な創作力の奔出から〈奇跡の十四ヵ月〉と呼ばれる。まだ女性作家が珍しかった時代である。一葉が矢継ぎ早に発表する作品は当時の文学青年たちを熱狂させ、彼女の周りには島崎藤村泉鏡花上田敏といった次代の日本文学を牽引する若者たちが集う。たった半年ほどとはいえ、一葉はまちがいなく当代最高の小説家という輝かしい世評を得た。
しかし一方で一葉は心中に暗いものを抱え、デビュー作が『闇桜』、転機となった作品が『暗夜[やみよ]』、晩年の『にごりえ』のラストが盆提灯に照らされて主人公の棺[ひつぎ]が運ばれていき、成仏できぬ人魂が空を走るという〈噂〉で終わっているように、荒涼とした死と闇について一貫して書き続けた作家であった。
本論は、ジェンダー論的観点からもますます注目されている一葉作品が持つ魅力を、作者の伝記的事実と文体的特徴の両面から探り、一葉が一葉となった契機を輪郭だけでも描き出そうとするものである。最後に彼女の晩年の奇怪なエピソードに注目することになるが、まずは生涯を簡単に辿ってみよう。
一葉はまだ維新の動乱がおさまったとは言えない時期に、東京府の下級官吏であった樋口則義と妻多喜の次女として生まれている。則義はもともと甲州大藤村の農民であったが、多喜との結婚を機に江戸へ出て八丁堀同心の株を買い士分となる。しかし一年も経たないうちに徳川家は瓦解し、幕臣であった樋口家は新政府の下級官吏に転身する。だが父の事業の失敗や長男泉太郎の夭折などによって、樋口家の家産は傾き、父の死後は一葉が若き戸主として零落した樋口家を支えるべく奮闘することになる。
こうしてごく発端の部分を取り上げただけでもわかるように、一葉の生い立ちには幾つもの境界が重ね書きされている。一葉は農民として生まれて幕臣に成り上がり、明治政府の末端に職を得たものの子であった。明治の強固な家父長制にあって、女戸主として家の重圧を担わねばならず、生涯に亘って武士的プライドを抱えつつ、貧しい庶民の心情を凝視した。女性性と男性性、近代と前近代、明治維新で富と権力を得た新階級と貧困に沈む旧階級という対立項の鬩[せめ]ぎ合いが彼女の作品を貫通している。それは彼女の生まれに由来するものであったと言える。
生来利発だったらしい一葉だが、母の考えによって十一の年に小学校をやめる。「女子[おなご]に長く学問をさせなんは、行々の為よろしからず。針仕事にても学ばせ、家事の見ならひなどさせん」というのが母の考えであり、「死ぬ計[ばかり]悲しかりしかど、学校は止[やめ]になりけり[※2]」と一葉はその時の心情を告白している。
その代わりというべきか、十四歳から名門歌塾萩の舎[や]に通い、和歌や王朝物語などの知識を身につける。萩の舎主宰の中島歌子は旧大名家に繋がりがあり、塾には上流階級の娘たちが多数通っていた。一葉の歌才は歌子に評価され一時助教まで務めるが、一葉が周囲との経済差を忘れることはなかった[※3]。萩の舎で古典的教養を我がものとするとともに、そうしたみやびな教養が上流階級の子女のお飾りでしかないことを噛み締めた経験は、彼女の作品に複雑な陰影を与えている。

一葉が小説を書き出したのは、歌塾の先輩であった三宅花圃[※4]が『藪の鶯』を発表して三十三円二十銭という大金を得たことに刺激されたからであった。十七歳の時父が亡くなってから樋口家は急速に没落していた。「今日より小説一日一回ヅツ書く事をつとめとす。一回書ざる日は黒点を付せんと定む」(明治二四・十一・四)と生真面目な少女は日記に記している。
もう一つのきっかけは新聞小説家の半井桃水[なからいとうすい]と知り合い、教えを請うたことである。当時三十を越えたばかりの流行作家は一葉の生涯唯一の-それも一方的な-恋の相手として知られている。出会ってすぐに一葉は恋に落ちたらしいが、その昂りには女性職業小説家として立つという気負いも混じっていたのかもしれない[※5]。一葉のデビュー作『闇桜』は桃水の発行する同人誌「武蔵野」に掲載された。
それから一年ほど彼女は複数の雑誌や新聞に作品を発表するが、一家を支えるほどの収入にはならず、樋口家は窮迫していく。この時期、一葉はあちこちに借金をしてまわっている[※6]。生活のために締め切りに追われて原稿を書く苦しさもあったらしい。二一の時には「糊口[ここう]的文学」(生活のための文学)と決別すると思い決め、小さな雑貨屋を開いている。
この時期から一葉の人間関係は、萩の舎一門の上流婦女から、東京で暮らす名もなき下層民へと変わる。一葉が雑貨屋を開くため転居した下谷龍泉寺は吉原に隣する土地であり、のちに『たけくらべ』の舞台になる遊興の街である。それまで士分の娘として山の手で育ち、高い教養を身につけた一葉にとっては異質な環境であったに違いないが、そこで目にした下層社会の実相は彼女の作品を大きく転回させていく。次の転居先では近隣の銘酒屋の酌婦たちと友誼に満ちた関係を結び、字を書くのが苦手な彼女たちに代わって手紙を書いてやったり、時には足抜けの手伝いに奔走したことがわかっている。当時、酌婦は下級の居酒屋で働きながら、時には体も売る最下級の女性労働者であった。
しかし危険な境涯にあったのは一葉も同じだった。一葉はもちろん、母も妹も商売の経験などない。結局雑貨屋は一年足らずで廃業。そのあと一葉は借金の依頼も兼ねて次々にいかがわしい人物の元を訪れている。ここでは先ず有名な久佐賀義孝との関係について述べ、研究史でも黙殺されてきた二十二宮人丸[にじゆうにのみやひとまる]についてはのちに取り上げる。
一八九四年(明治二七年)二月、一葉は本郷に天啓顕真術会創設者久佐賀義孝を訪れる。久佐賀は新聞に頻繁に広告を出して、インド、米国などを流浪して修行を積み、「東洋のメスメリズム[※8]」を作り上げたなどと吹聴していた占い師・相場師であり、いかがわしい人物である。一葉は「秋月」という偽名で面会し、相場をやりたいので金を貸してほしいと申し出たらしい。

一葉がどこまで本気だったのかはわからない。しかし初対面で「すでに浮世に望みは絶えぬ、此身ありて何にかはせん、さらば一身をいけにえにして、運を一時のあやふきにかけ、相場といふこと為して見ばや」(明治二七・二・二三)と壮士風の演説をぶつ若い女の度胸と頭脳に久佐賀が興味を持ったのは間違いない。金を貸すとは言わないものの、この後一年以上二人の間には交流が続き、久佐賀は何度も彼女に妾になるよう誘いをかけ、一葉は日記では「あはれ笑ふにたえたるしれものかな」(明治二七・六・五)と切って捨てながら、思わせぶりな返事を返しているのである。二人の間に実際に金銭(そして身体)のやりとりがあったかについては研究者も意見が分かれている。しかし一葉が自分自身の「性」を掛け金にして、海千山千の久佐賀と渡り合ったのは確かである。それはいかにも危険な賭けではあった。こうして危機のうちに作家一葉の前期は終わり、豊穣な〈奇跡の十四ヵ月〉が始まる。
一八九四年末に『大つごもり』、翌年の初頭から一年続く『たけくらべ』の連載が始まり、並行して『にごりえ』も書かれる。
この頃になると雑誌「文學界」の同人である上田敏島崎藤村といった文学青年たちが一葉を尊崇し、度々家を訪れるようになる。さらに『たけくらべ』が森鴎外幸田露伴斎藤緑雨といった文壇の大物に絶賛されたことでますます文名は高まる。が、その時一葉に残された時間はわずかだった。一八九六年の末、奔馬性の結核によって永眠する。
このように作家一葉の活動期間はわずか四年であり、その中でも代表作は後半の一年半ほどに集中している。では前半と後半では何が違うのだろうか。
習作を含めて前半の作品は零落したお嬢様を主人公に据えて悲恋や三角関係を描いたものが多い。そこでは古典和歌や源氏物語からふんだんに修辞が借用され、舞台は明治社会であってもやや感傷的でロマネスクな物語世界が展開されている。しかしながら没落した若い女の焦燥や孤独というのが作者本人の切実なモチーフであったとしても、いかにも頭で作り上げられたこしらえ物という印象は免れない。
それと比べると後期の作品では、はるかにリアルで精彩に満ちた同時代の下層社会が捉えられている。『たけくらべ』のような伊勢物語を典拠に持つ抒情的な物語であっても、美登利や信如ら幼い恋人たちの立ち居には、十重二重[とえはたえ]に社会的拘束がかけられているのである。そこには人が階層で分断され商品化されていく様子をニュートラルに腑分けする近代小説特有の冷徹な眼差しがある。
ここに一葉後期作品の抱える両義性があると言って良いだろう。言文一致が確立し、藤村、田山花袋夏目漱石らが活躍を始める明治三十年代から振り返ると、江戸の習俗の色濃く残る下町を優雅な文語体で描いた一葉は近代文学が喪失した豊穣な言語世界の最後の開花であったように見える。一方、近世文学の側から眺めると、一葉が実現した高解像度のリアリティは驚異的に思える。そこには江戸の戯作が表現することのできなかった近代的個人な孤独がありありと描きこまれている。
文学史家の亀井秀雄は、一葉や露伴のような近世と近代の狭間にある作家たちは近代的意識と戯作者意識の混在を脱することができなかった「窪地」の作家なのだと言う。
「たしかに一葉や露伴の表現は一種の窪地である。作品人物のことば(科白)の部分だけでなく、いわゆる作者の地の文においてさえ、明瞭に個人化された人間としての自己意識の一貫性が乏しく、まるで湿地帯に滲み出てくる水のように、絶えず何か別なものの声に冒され、対象的(客体的)世界の把握や評価を乱されている」
しかし一葉や露伴の作品は本当に近代に達することができなかった過渡的な表現に過ぎないのだろうか。むしろそこには、近世とも近代とも違う特異な語り手の語りが現れているのではないだろうか。何よりも亀井自身が言う「湿地帯に滲み出てくる水のように」語り手を冒し続ける声こそがその証左ではないだろうか。

 

※1 戸籍名は「奈津」だが、一葉自身が日記に「夏子」あるいは「なつ子」と署名しているためここでは「夏子」とする。
※2 日記、明治二六年八月十日、『全集樋口一葉3』小学舘、一九七九年。以降、日記からの引用はすべて小学舘版全集より。
※3 一葉は華やかに着飾った塾生のあいだで自分だけみすぼらしい格好をしなければなあない嘆きを日記に記している。まだ十代の少女にとっては切実な体験であっただろう。
※4 本名田辺竜子、坪内逍遙の『当世書生気質』に刺激されて書いた『藪の鶯』(一八八八年)は初の女性作家による近代小説とされる。のちに批評家の三宅雪嶺夫人となる。一葉とは違って富裕の生まれで高い教育を受けることのできた才人であった。
※父も長兄も死没して不在の樋口家は、母多喜と妹くにと一葉の三人の女世帯であった。執筆において母と妹は一葉を献身的に支えた。一方一葉は嫁に行くことも婿を取ることも選ばず、樋口家の「女家長」として日本で最初の「女性職業作家」になって一家を養おうとしたのだった。
※6 「昨日より、家のうちに金といふもの一銭もなし。母君これを苦しみて、姉君のもとより二十銭かり来る」。(明治二六・三・一五) 「我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道もなし」(明治二六・三・三十)
※7 略
※8 略

 

(了)