(巻九)When we are born, we cry that we are come to this great stage of fools(シェークスピア:リア王

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1月11日月曜日

茶の本」は難しく遅々として進まずです。

春遅々と先の詰まりし醤油差し(田中悦子)

そうか! と納得した箇所は僅かですが、39頁から40頁の以下の書き抜き部分は少しは判ったつもりになっています。「私の嫌いな10の人びと」で中島義道先生が仰りたいこともこの辺りことなのでしょうか。

以下書き抜き

すでに言ったように、道教の「絶対」は「相対」であった。倫理学において道教徒は法律と社会の道徳律を罵倒した。彼らにとって正と邪は相対的な言葉にすぎなかったからである。定義はつねに制限である。「一定」「不変」は成長の停止を表わす言葉にすぎない。屈原(くつげん)は言った。「賢人は世とともに推移する。」われわれの道徳の基準は社会の過去の必要から生まれる。が、社会はつねに同じ状態のままであり得るだろうか。共同体の伝統を遵奉すれば、個人は絶えず国家の犠牲にならざるをえない。教育は、その大いなる幻想を維持するために、一種の無知を奨励する。人びとは真に有徳の人たることを教えられるのではなく、不都合なく振舞えと教えられるのである。

以上抜き書き


今日は成人の日とかで、ラジオでもそれに因んだ曲がかけられていました。
その中の一曲が、コニー・フランシスの“大人になりたくないーToo many rules(原題)”でした。

色々ところでつながっているのかなぁ?

或る高さ以下を自由に黒揚羽(永田耕衣)

茶の本」は、判らないながらも、ようやく第三章「道教と禅道」を読み抜けました。
第四章は「茶室」なので具体的な話かとおもいましたが、どうもキーワードは「数寄家=アンシンメトリカル」らしい。左右対称性=シンメトリーの反語だそうです。

今日は細君と息子の三人でお昼を食べに柏に出ました。ちょうど醤油差しがありましたので料理に入れて撮りました。