(巻十四)西暦でいくさの話生身魂(長田久子)

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3月21日火曜日

3ヶ月に一度の検査を受けに西千葉病院に行く。エックス線撮影のあと診察であるが、朝からの雨のせいか患者の出だしがゆっくりのようでエックス線は10分待ちで通過した。しかし、診察は予約時刻の11時半から遅れること3時間であり、結局院内で6時間ほどいた。

下萌や警察犬は伏して待つ(岡野洞之)

患者は健康や命を委ねているので辛抱強く我慢しているが、付き添いに伴われている老人たちは、介助者に気を使って、“今日は無理だから止めにしましょう。帰りましょう。”と再三話かけていた。これに介助の方は“あと五人ですから、あと三人ですから”と逆になだめていた。

手助けや明日は我が身の時雨哉(潤)

3時近くに病院を出た。ショボショボと雨が落ちているが、荷風の終焉の地(市川市)を訪ねるのはむしろこのような空模様がよかろうと新八柱から武蔵野線に乗った。
JRの西船橋から繋ぎの悪い京成電鉄の西船駅まで歩いた。現在は西船という駅名だが、かつては葛飾という駅名であった。その葛飾だったころ入ったことのある焼鳥屋“兵助”が健在であることを慶びながら、慎ましい駅のホームに立った。

食べたかず串で数へて焼鳥屋(鷹羽狩行)

京成西船駅から各駅停車で二駅目の中山で下車した。荷風の終焉の地が中山だと勘違いしたようで、法華経寺の参道にある市川市の出張所で教えを乞うたところ親切に調べてくださり、八幡が正しいと資料を打ち出して頂いた。

蜻蛉の行く先々の勘違い(渡辺美代子)

資料によれば、荷風は昭和21年1月に菅野に移ってきたとのことで(中略)昭和32年3月に京成八幡駅に近い現在の八幡3丁目25番に家を新築して転居し、同地で昭和34年4月30日に死去となっている。
同番地は京成電鉄八幡駅のすぐ近くで線路から路地一本引っ込んだ一画であった。入り組んだ路地の狭さがこの辺りの昭和を顕している。

夕顔やろじにそれぞれ物語(小沢昭一)

文学碑とか、少なくとも案内板くらいは在るかと思ったが、我輩には見付けられなかった。荷風が居た当時の地番と現在の地番は違うようだが他に撮るものもないので、一番年季の入った地番表示板を写した。
荷風になったつもり酒”をいたすつもりであったが、病院の待ち時間三時間が響いて、いたせず。

冬の路地荷風になつたつもり酒(潤)

(昨年暮れに玉ノ井を歩き発句)