(巻十五)記事で見し先進医療受けんとす転移していて無理だと言わる(岡田独甫)

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7月22日土曜日

そろそろ旧宅の処分を考えることにして、先ずはチラシの差し込みの多い不動産屋さんと接触してみた。
棲みかについては損得なしでここまで来た人生です。
幸い、二十代後半に二百万ほどの親から融通してもらい、新大塚駅前の30平米の中古ワンルーム・プラスを七百万のローンを組んで、千三百万で買ったのはバブルの前でした。細君をここに迎えたが、実家に近すぎて細君の泣きが入り、柏市の公団の分譲へ転居したのがバブルの始まりの頃で、千三百万のワンルームが三千万で売れてしまった。二千五百万の3LDKー78平米の公団分譲へはローンなしで移った。
ここで平成元年に息子が生まれた。
ここに居ても十分贅沢なのに、義妹夫婦の一戸建て取得に悪い影響を受けた細君が金を工面して十数年住んだ公団分譲から旧宅である一戸建てに移った。その頃は既にバブルの終焉から5年以上立っていたが、それでもまだ冷えきる前で千八百で売り、メーカー住宅の築5年30坪の中古に三千三百で移った。
今、築25年の売却高がどれ程になるか判らないが、大した額ではなかろう。
終わってみれば元の木阿弥であるが、帳尻は合った。由と致そう。

めぐりては水にをさまる百合鴎(石田郷子)

そもそも、生まれは葛飾堀切の六畳のアパートで、その後同区柴又の都営住宅の長屋で我輩は育った。自分の部屋を持ったのは二十歳を過ぎてである。我輩には四畳半以上は要らない。書籍・衣類など余計な物を持つから場所がいるのである。息子も今四畳半に机と本棚を置き布団を敷きクロゼットに衣類を押し込んで生活しているが、文句は云っていない。我輩は六畳に居るが、二畳分は共用部分なので実質四畳程度が我輩の世界である。

浅蜊掻く五尺四方にとどまりて(山田和夫)

若い頃は先が40年もあるので、家を持ちたいと思うが、今となれば処分に困る家を遺しても仕方ない。
世の中がどう変わって行くか分からないが自分の家ではない借家住まいの心配、不確かな将来に対する不安、はその先が短くなった。

借家の天井低き暑さかな(正岡子規)