2/2「特高スパイ事件 - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

イメージ 1


2/2「特高スパイ事件 - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

ー死者の名誉とマスコミー

[補遺]

この事件は、昭和五十八年三月になって、大阪地裁堺支部において判決が下された。
実に、二年半に及ぶ審理が行われたわけである。
判決書の全文は、「判例時報」一〇七一号(昭和五十八年五月十一日号)に掲載されているから、興味のある人は読んでおかれるとよい。
ここでは、その要点だけを指摘しておくにとどめる。
本件民事事件の原告となった故西東三鬼氏の遺族からの請求は、つぎの三点だった。
故西東三鬼氏自身の名誉を毀損したことによる謝罪広告を日刊新聞に掲載すること。
故西東三鬼氏の遺族の名誉をも毀損したから、同じく日刊新聞に謝罪広告を掲載すること。
遺族に対して、慰謝料 として二 百万円を支払うこと。
故西東三鬼氏の遺族は、著者のK氏と出版元のD社に対し、この三点を請求して、訴えを提起したのである。
判決は、このうち、とについては、故西東三鬼氏の遺族からの請求を認めた。
「故西東三鬼氏が特高のスパイであった」という意味のことを著書に書き、これを出版したことについて、被告の側には、少なくとも過失があった。つまり取材不充分であり、問題の個所は、憶測による記述であったと言わざるを得ないと、判決はのべている。
こういう結論に達するまでには、裁判所としても、事実の認定に、ずいぶん苦労したらしい形跡が判決書からも窺われるが、ここで、その全文を掲載するわけにもいかないのが残念である。
の慰謝料についてだが、裁判所は、三十万円しか認めていない。
名誉毀損事件では、原告の主張が認められたか、どうかが重要であることを思えば、慰謝料の多寡は、さして大きな問題ではない。
ところで、について、裁判所は原告の請求を認めず、この意味でも、遺族側は一部敗訴したことになる。
ここでは、死者に対して名誉毀損が成立するか、どうか、そのことが大きな争点になっている。
明確な根拠なくして、「故西東三鬼氏は特高のスパイだった」と書物に書かれたら、遺族としては我慢がならないだろう。
そのため、遺族を救済する必要はある。(について、裁判所が遺族の言い分を認めたのも、こういう事情があるからだ)
しかし、このことは、「遺族の名誉が損なわれているのであって、故西東三鬼氏自身の名誉が損なわれているわけではない」という疑問が提起される余地が大いにある。
仮に、死者に対して名誉毀損ということがあり得るとしても、墓の下に眠っている人が「おれの名誉を毀損したから、おれに対して、『申しわけないことをした』と謝罪広告を新聞に掲載しろ」と請求できるか。これが最後の問題として残る。
死者自身が訴えを起すことはできないのである。
死者は、すでに法主体性を失っているからだ。死んでしまった人間が権利を行使できるわけがないし、義務も負わない。つまり、法律や裁判とは無縁の存在となってしまったのだ。
「では、死者の相続人が死者にかわって、謝罪広告の掲載を求めたら、いいじゃないか?」と思う読者もいるだろう。
まさに、故西東三鬼氏の遺族は、その論法でもって、の請求をしたのであるが、裁判所は「実定法上の根拠を欠く」という理由で、請求を棄却した。
平たく言えば、根拠となる法律の条文がないという意味だ。
ところで、この事件は、判決に対して、双方から不服の申立て、つまり控訴の申立てがなかったために、第一審限りで確定し、もはや、争う余地がなくなった。
控訴しなかった事情について、著者のK氏と出版元のD社側は、「裁判所が三鬼をスパイでないと積極的に認定したが、歴史上の事実を裁判で争うのは適当でない。歴史を書く人が裁判所外で論争すべきであると認識しているので控訴しないことにした」(「日本経済新聞」昭和五十八年四月八日朝刊)というが、この考え方そのものは傾聴に値する。
極端な例だが、もし、徳川家康が始末におえない悪人であったという意味のことを、具体的な事実をあげて指摘し、書物を書いたとしよう。
それを読んだ徳川家の当主が、「これはけしからん。謝罪広告を出せ」と著者と出版社を相手どって裁判を起こしたら、どうだろうか。
歴史上の事実というものは、資料不足のせいもあり、真偽不明のところを推測で補う必要がある。にもかかわらず、推測で書いたとして、慰謝料の支払いを命じられたり、謝罪広告の掲載を求められたりする危険を犯して、歴史研究を行い、歴史小説を書かなければならないとすれば、それこそ、学問の自由、言論の自由にかかわる大問題ではないのか。
それを考慮にいれ、民事上も、刑法の規定と同様に、真実でないのを知りながら、「故意」に死者の名誉を毀損した場合か、過失だったとしても、あまりにも不注意すぎると非 難されても弁解の余地のない「重大な過失」が認められるケースに限定して、慰謝料なり、謝罪広告の掲載を命ずるべきであるという、有力な学説があらわれた。
前掲「判例時報」のコメントにも、この学説が引用されている。
本件が、それに当てはまるか、どうかは別として、考え方としては、わたしも賛成である。