「人間はすごいな - よしもとばなな」 文春文庫 11年版ベスト・エッセイ集 から

「人間はすごいな - よしもとばなな」 文春文庫 11年版ベスト・エッセイ集 から
 

雀鬼桜井章一さんの本が大好きで、くじけそうなときによく読む。
あんな厳しい内容の本が子守唄に感じられる自分の人生っていったいどうなの?と思うけれど、小説を書く孤独な道をこつこつ生きていくためには、どうしても先を歩いた人の言葉が必要になるのだ。
「麻雀の代打ち二十年間無敗」というのを、言葉にするとただかっこよく、ば~んとかどか~んという感じがするが、それは違う。
桜井さんの人生は、マンガみたいに熱く燃えているものではなく、きっと、朝起きてすぐもう逃げ出したい、気持ちが重い、ということの連続だったと思う。
桜井さんだったひとりの人間なんだし、もしも鈍くて怖さや面倒くささを感じない人だったら、とっくに負けていただろうから。
最後の最後までいろいろなところをつめに詰めて、さらにふっと力を抜いて、その上でひとつも見落としなく生きていないと、そんなことは成し遂げられない。ありとあらゆるものの力を借り、弱点をなるべく小さくなるよう自覚、調整し、かといって無くそうとはせず、慢心を限りなく減らし、そこにある気持ちはみないったん認め、流していく・・・・そんな厳しい時間の連続だろう。
勝負のあとは、お礼として用意された高級料亭の接待も、黒塗りの車も断って、歩いて帰った、と桜井さんは書いていた。
そんなことを受けていたら、気がゆるむというのが理由だと思う。人間がいちばん弱いのは実はそのへんなのだろうと思う。楽をして、おいしいものを飲んだり食べたりして、今日くらいゆっくり休もう、と全部ゆるみきってしまったら、だめになってしまう何かがあるのだ。
楽しむことを否定するという意味ではなく、時と場所によって、ゆるみかたの度合いを考えるということなのだろう。
麻雀もそこまで達すると剣豪と同じで「その人に勝った」というのがたいへんな勲章になってしまうから、いろいろな人がいろいろなむちゃくちゃ方法で挑んでくるわけで、その中にはインチキな強さから真の天敵まであらゆる種類の強さがそろっていたと思うから、引退の瞬間を見極めることも含めて、ルパン三世宮本武蔵かくらいの超人的な判断力と勘と本能の声が毎日必要だっただろう。
私は女性だからどこかしら集中力が欠けるし、命をかけて小説を書いているの?と言われれば、若干違う気がする。
むしろおいしいもの好きなただのへなちょこだ。
でも、書くために大事ななにかを失わないように日々自分を調整していると、彼のような、何かを実践して実行した人の言葉がほんとうに響いてくる。
あるとき、桜井さんに本を送ろうと決め、お手紙をそえて送ったら、なんとご本人からお電話をいただいた。
やはりすごいなあ、と思った。
手紙に電話番号を書いたわけではないから、自ら出版社に電話をかけ、私の電話番号を聞き、かけてくださったのだ。
あいにく私は不在だったのでお話はできなかったけれど、やはりこの人はすごい人だと思った。妻や年下の人にかけさせることもなく、ただ「本に手紙をそえてくれてありがとう」と伝えるためだげに行動している。
私も含めて、みんな、意外にそれができなくなっていくのではないか?
それができなくなってきて、だんだん、だめになっていくのではないか?
人生は、少しずつ、荷物が重くなって、やることも多くなってくるからこそ、大事なものが続き、むだなものがしだいに減っていくのではないか?ただ軽く明るくなっていくのは、法則としてありえないのではないか?最後は重力を含め、たくさんの重いものから解き放たれるからこそ、死は恩寵なのではないか?
私もまあデブではあるが、大事ななにかを止めてしまうとだんだんデブになる上にフットワークも重く、新しいことに対しておっくうなっていくのではないか?体の形にはその人が全部出てしまう。どんなにすばらしいことを言っていても、ずっしりとおなかが出ていて、体をなるべく動かさずに目下の人にいろいろやってもらうようになると、そして自分がお財布を出さなくなっていくと、確実にやっぱりなにかがたるんでだめになっていくのではないだろうか?
たとえバカ正直だ、損だ、疲れると思っていても、自分である程度動いて判断していれば、生き物として、正常な働きができるのではないだろうか。