「気軽に書いてみればいい - 原田宗典」楽天のススメから

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「気軽に書いてみればいい - 原田宗典楽天のススメから

いわゆる文学の衰退が叫ばれて久しい。どれくらい久しいのかというと、先日、昭和初期に活躍した横光利一という作家の随筆を読んでいたら、その中の一節に、
「文学の衰退が叫ばれて久しいが......」
と書かれていたほど久しい。ひょっとしたら文学というのは、生まれた瞬間からもう衰退し始めていたのではないか、と疑いたくなるほどである。
にもかかわらずここ数年で文学賞の数は飛躍的に増え、そこに原稿を応募してくる人の数も増加の傾向にあるという。ようするに文学に興味を持ち、愛好する人の数は衰えていないが、文学の質そのものが追いつかないということだろうか。文学賞の選考委員などをなさっている偉くて偉くてもう困っちゃうような作家の先生方は、やれ最近の若い奴は志が低いだの、やれ文学を嘗めるなだのとお怒りのご様子だが、ぼくはこの点に関しては楽観的に考えている。これだけ数が増えたのだから、一つ一つの文学賞に応募してくる作品の質が下がるのは当たり前である。仮に、一定レベルに達した作品が沢山集まったとしても、長い目で見れば別に喜ぶべきことでもない。文学賞が百あるとして、毎年百人の受賞者が全員作家として残っていったら、日本はそこらじゅう作家だらけになる。傍[はた]から志がどうこう言うまでもなく、残るべき人は残り、消えるべき人は消えていく。昔からそういうふうになっているのである。
ぼくはむしろ文学賞への応募数が年々増えている、という事実を素直に喜びたい。この際、作品の質は二の次でもいい。志が低かろうが、一攫千金を狙おうが、とにかく“書く”という行為に時間を費やす人が増えたことを嬉しく思う。

ずいぶん甘口のことを言うなあ、と思われるかもしれないが。ぼくはぼくなりに文学の将来を案ずればこそ、こんな言い方をしているのである。小説や評論などの作品の形を取る以前の問題として、今や“書く”という行為自体が衰退している。電話が普及したためにみんな手紙を書かなくなり、日記をつける習慣は鼻で笑われ、ノートを書き写すまでもなく指一本でコピーが取れ、国立大の試験までもが文字を書かずに番号で選ぶ方式になってしまった現在、ごく普通の人たちにとって“書く”という行為そのものが、縁遠いものとなっている。
つい先日も、ある雑誌の女性編集者が、
「小説とか書けるなんて、すごいですよねえ。尊敬しちゃう。私、文才ゼロの人で-、文章書くのダメなんですよう。難しくて」
なあんてことを真顔で言うものだから、ぼくは危機感を深めてしまった。かりそめにも活字の世界で仕事をする女性にして、この認識である。“書く”という行為が縁遠いものとなってしまった結果、その積み重ねの中に存在する文学なんかは、今や神棚の上に載せられて、拝まれたりしている。これはヤバイ、とぼくは思う。“書く”という行為がそんなふうに偉そうなものとして扱われてしまっては、一大事である。
文章を書くことなんて、本当はちっとも難しくない。米を研ぐよりも簡単で、小学校さえ出ていれば誰にでもできることなのだ。だから一行でも二行でも、自分が考えていることを書いてみてほしい。作品に仕上げようなんて、大袈裟なことを考える必用はない。日記でも手紙でもメモでもいい。書くという行為自体が、実はすごく大事なのである。
人間、誰しも自分が考えていることについては、曖昧にしか捉えていない。頭の中だけでああだこうだと考えて分かったつもりになっていても、実際には分かっていない。それを言葉にして誰かに話してみるのも確かに有効な手段だが、口は往々にして嘘をつく。しかも話し言葉は、語るそばから消えていく。だから書かなければいけないのである。書かなければ、自分の考えていることは絶対に分からないと断言してもいい。誰に見せるわけでもなく、自分自身のために、テニヲハが間違っていてもいいから、書いてほしい。
「自分は今、何をどうしたいのか?」
ほら、頭で考えただけでは分からないでしょう。自分と向き合って、肩肘張らずに書いてみれば、必ず見えてくるはず。だからどうか“書く”という行為を敬遠しないで、電話と同じように扱ってやってくれい。頼む。