「1/3私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から

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「1/3私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から
 

はじめてのウイスキイ

最初に飲んだウイスキイのことは妙にハッキリと記憶している。昭和十四、五年のことで、父が日本海側の柏崎という所へ、兄と私を連れていってくれた。当時、父は、新潟鉄工所に勤めていて、新潟の工場に仕事があったのだろうと思われる。父は学生時代から石油精製装置やパイプの専門家で、その関係(たとえばガソリンスタンド)の特許を幾つか取得している少壮の科学者であり実業家の卵でもあった。父が兄と私の二人を旅に連れて行くなんてことは、後にも先にもこれっきりだった。
私が十二、三歳、兄が十三、四歳だった。柏崎では新築の日本旅館に泊った。そこで夕食のときにウイスキイを飲んだのである。むろん、ストレイトで、その頃は誰もがカットしたショット・グラスで飲んだ。グラスが琥珀色であったかブルーであったか、それは思い出せない。
ウイスキイには、さア何と言ったらいいのか、一種の憧れのようなものがあった。尊敬して遠くから眺めるもの。権威。高貴なもの。スター。思い切って陳腐な表現を怖れずに書けば、ウイスキイは“宝石”だった。キラキラしたものだった。
酒豪と聞いている出入職人の大工や鳶職や植木屋の親方が「あいつは、いけねえや、腰を取られる」なんて言っていた。アルコール度数で日本酒の三倍、焼酎の二倍くらいあったから、たくさん飲めば体の自由を奪われるが、どこかに“俺たちは遠慮したほうがいい”といったような気配があった。ウイスキイは旦那の飲むものである。トリス文化といったようなウイスキイの大衆化はずっと後年になってからのことである。そもそも、飲み方を知らなかった。追い水(チェーサー)なんて言葉も知っているわけがない。
十二、三歳であった私にも畏怖の念があった。おそれおおいもの。禁断の木の実。日本酒なら小学生の時から、台所で盗み酒をやっていた。さすがにウイスキイには手が出なかった。こわい。こわいけれど飲んでみたい。いったい、それはどんなものか。飲んだら、天上に舞いあがるような気分になるのか。
遂に私はそれを口にした。ショット・グラスが唇に触れる感触がいい。うまい!刺戟的である。ノドを刺す。口いっぱいに香り高いものが広がる。銘柄は知らない。たぶん、その頃人気があって父も好きだったホワイト・ホースだったんじゃなかろうか。一杯ではなく、二杯飲んだんじゃないかと思っている。いい気分になった。こんな未知なるものがあったのか。人生って奴は、まだまだ奥があるんだなと思った。ふわふわする。体が揺れる。むかむかする。私は天上へではなく天井へ舞いあがった。
「横になれ」
と父が言った。私は初めて部屋の中が天井がぐるぐる廻るということを経験した。頭のなかでとめようと思ってもとまらない。ぐるぐる廻る。部屋ごと一回転する。二回転する。三回転する。あとのことは知らない。
思うに、ウイスキイがもっと大衆化していたら、こんなことにはならなかったろう。女中が飲ませなかいだろう。
柏崎行の記憶は、これしか残っていない。海がどうだったのか、父の工場がどんなふうだったのか、兄はどうなったのか。往復の汽車がどんなであったか。何も記憶がない。