(巻二十三)山開き登る予定はないけれど(中島信也)

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8月4日日曜日
 
今日から巻二十三でございますよ!

毎朝の蜜柑の鉢への水やりが愉しい。緑の濃い堅い葉を撫でて、新しく出てきた若い葉を撫でて、まだ小さな実を撫でてから言葉を掛けて、お水をあげるのである。
ペットと言うのは犬か猫だと思っていたが、植物だって十分に心の支えになってくれるようだ。ありがとう“みかんちゃん”。

午前中は洗濯の手伝いで今日は薄い掛け布団のカバーを二枚洗った。とにかくこの陽射しなのでよく乾いてくれます。

洗濯を三度する日や心太(鈴木ゆみ)

暑いので外に出掛けない。外に出掛けないと金が掛からない。働きに行かなくなって家に隠るようになっても飴玉をしゃぶって文庫を読んだり、FM葛飾で地場の話題を聞いたりBBCの教養番組を聴いている程度の贅沢なら、あまり金は要らないようだ。

葛飾の大堤防を焼く日かな(高野素十)

楽しみがないと云えば淋しそうに聞こえるが、金を掛けることで見かる楽しみが本当の楽しみか分からないね?
それに、この程度の楽しみなら未練にならないのでよろしい。

本

「葬式の心得 - 山口瞳新潮文庫 礼儀作法入門から

を読んでみた。どうも昭和五十年代のつまり1970年代から八十年代前半バブル前の礼儀作法と云うか社会常識を述べておられる。
この「葬式の心得」にしてもその前提が自宅での葬儀であり、葬祭場ではない。
葬儀のほか、婚礼などもテーマに上がっているがやはりズレはあろう。
しかし、そもそも実用書として読む本ではないからそれはどうでもよい。

『 昭和三十四年に母が死んだときには、私はそんなふうにした。ところが、やっぱり厭なことを言う奴がいるものであって、ずいぶん辛い思いをした。ここで正直に、正確に格と、そのときの私には、普通の香奠返しをするだけの経済的な余裕は無かった。というより、当時、私の家は破産状態で、私の月給二万五千円ぐらいで
八人が食べていたのである。まあ、言いたい奴には言わせておけと思ったが、ずいぶん腹が立った。
昭和四十二年に父が死んだときは、前回のことがあったので、竹茗堂からお茶を送って香奠返しにした。香典の五分の三くらいの金額を見当にした。そのときは、家を買って間のないときで、やはり、余裕といったものはなく、借金が残っていた。しかし、父の入院費用、毎月三十万円から五十万円というものが無くなるので、ホッとするようなところもあった。』

辺りが本音で面白い。今時、親の入院費を負担する孝行息子がそれほどいるとは思われないが山口さんはなされてご苦労されたようだ。(あたしもせずに済んだ。迷惑をかけぬために今度はあたしがさっさと死なねば。)

初七日の席順までも書き残した
余命告知の兄を想いむ(及川泰子)

山口瞳氏の『私のウイスキイ史』はすでに掲載してありますのでお楽しみください。

山口瞳氏は1926年生まれで1995年に永眠とカバーで紹介されている。
六十九歳で亡くなったようだ。あたしに言わせりゃストライク・ゾーンでお亡くなりになったようですなあ。
「死ぬ能力のあるうちに死にたい」という一つの願望はまっとうされたのでしょうから、よかったね!