(巻三十六)採血に投げ出す腕や冬の月(西藤玄太)

(巻三十六)採血に投げ出す腕や冬の月(西藤玄太)

3月3日金曜日

曇りのち晴れ。朝家事は掃除機掛け。

昼飯喰って、一息入れて、散歩に出かけた。クロちゃんに会う。満腹のようでスナックは欲しがらないが尻尾をピンと立てて足元に寄り付き誠に愛想がよい。次に稲荷のコンちゃんを訪ねたがこちらは警戒心が強く和解には更なる時間がかかりそうだ。

曳舟川の遊歩道で高橋さんとスレ違う。3時を待って「さと村」に入る。先客に御同輩一名。すぐにもう5人入った。金曜日だものなあ。予約の電話も入ってくる。今日もタン、レバを塩で各2本、ガリ、ホッピー中1で1350円。トイレの警告が面白い(一撮)。

5時過ぎに自室でICレコダーを聴いていると、「泉谷さんが『春夏秋冬』を唄ってるよ、おいで!」と細君が呼びにきた。昨年の秋に甲府で撮った画像と曲が流れて、聞き入った。しかし、泉谷さんも老いたなあ⁉後期かな?

行く春やこの人昔の人ならず(加藤武)

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

寒さが緩んで、血圧が範囲内に戻った。長生きなんて願い下げだが、下手こいて便所に行けなくなると困る。

BBC Radio Money Box, Dementia and Money

https://www.bbc.co.uk/programmes/m001hp98

を聴いたが、あの国でも呆け老人が百万人に近づいているらしい。

心身とも長生きなんぞするとろくなことにならぬ。さっさと一発で終わりになりたいものだ。

「文壇いろはにほへと武芸帳 - 嵐山光三郎」ぼくの交友録的読書術 から

を読んだ。編集者と作家の話たが、山口瞳(編集者)と五味康祐(作家)の関係が出てくる山口瞳の作品を思い出して読み返してみた。

「私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から

子鰯も鯵も一ト塩時雨かな(山口瞳)

「私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から

はじめてのウイスキイ

最初に飲んだウイスキイのことは妙にハッキリと記憶している。昭和十四、五年のことで、父が日本海側の柏崎という所へ、兄と私を連れていってくれた。当時、父は、新潟鉄工所に勤めていて、新潟の工場に仕事があったのだろうと思われる。父は学生時代から石油精製装置やパイプの専門家で、その関係(たとえばガソリンスタンド)の特許を幾つか取得している少壮の科学者であり実業家の卵でもあった。父が兄と私の二人を旅に連れて行くなんてことは、後にも先にもこれっきりだった。

私が十二、三歳、兄が十三、四歳だった。柏崎では新築の日本旅館に泊った。そこで夕食のときにウイスキイを飲んだのである。むろん、ストレイトで、その頃は誰もがカットしたショット・グラスで飲んだ。グラスが琥珀色であったかブルーであったか、それは思い出せない。

ウイスキイには、さア何と言ったらいいのか、一種の憧れのようなものがあった。尊敬して遠くから眺めるもの。権威。高貴なもの。スター。思い切って陳腐な表現を怖れずに書けば、ウイスキイは“宝石”だった。キラキラしたものだった。

酒豪と聞いている出入職人の大工や鳶職や植木屋の親方が「あいつは、いけねえや、腰を取られる」なんて言っていた。アルコール度数で日本酒の三倍、焼酎の二倍くらいあったから、たくさん飲めば体の自由を奪われるが、どこかに“俺たちは遠慮したほうがいい”といったような気配があった。ウイスキイは旦那の飲むものである。トリス文化といったようなウイスキイの大衆化はずっと後年になってからのことである。そもそも、飲み方を知らなかった。追い水(チェーサー)なんて言葉も知っているわけがない。

十二、三歳であった私にも畏怖の念があった。おそれおおいもの。禁断の木の実。日本酒なら小学生の時から、台所で盗み酒をやっていた。さすがにウイスキイには手が出なかった。こわい。こわいけれど飲んでみたい。いったい、それはどんなものか。飲んだら、天上に舞いあがるような気分になるのか。

遂に私はそれを口にした。ショット・グラスが唇に触れる感触がいい。うまい!刺戟的である。ノドを刺す。口いっぱいに香り高いものが広がる。銘柄は知らない。たぶん、その頃人気があって父も好きだったホワイト・ホースだったんじゃなかろうか。一杯ではなく、二杯飲んだんじゃないかと思っている。いい気分になった。こんな未知なるものがあったのか。人生って奴は、まだまだ奥があるんだなと思った。ふわふわする。体が揺れる。むかむかする。私は天上へではなく天井へ舞いあがった。

「横になれ」

と父が言った。私は初めて部屋の中が天井がぐるぐる廻るということを経験した。頭のなかでとめようと思ってもとまらない。ぐるぐる廻る。部屋ごと一回転する。二回転する。三回転する。あとのことは知らない。

思うに、ウイスキイがもっと大衆化していたら、こんなことにはならなかったろう。女中が飲ませなかいだろう。

柏崎行の記憶は、これしか残っていない。海がどうだったのか、父の工場がどんなふうだったのか、兄はどうなったのか。往復の汽車がどんなであったか。何も記憶がない。

ストレイトで飲むべきもの

昭和二十年五月二十五日、東京大空襲のとき、南麻布に住んでいたのだが、最後の最後まで消火につとめ、どうにもならなくなって有栖川公園へ逃げた。いまでも不思議にも滑稽に思っているのだが、私は一本の柄杓を手にしていた。金目のものは幾らでもあったし、柄杓なんか何の役にも立たないのがわかっているのに。

ところが、私は、逃げる前に、サントリーの角瓶を池に放り込んでいた。軍需成金であった私の家には貴重だったサントリー角瓶が箱(ケース)で置いてあった。そのうちの一本である。自分では大手柄のつもりだった。

夜が明けて家へ戻ると一面の焼野原だった。お向いの後に最高裁の判事になった小林俊三先生の家も丸焼けである。

私は小林先生にウイスキイの話をした。一献差しあげたいというのも妙な話だが、小林先生は大層喜ばれた。焼跡に立ってウイスキイを飲んだ。小林先生は酒好きではなかった。しかし、ともかく体だけは無事であったことを祝おう、自分を励まそうという気持があったには違いない。その小林先生がコップのウイスキイをがぶっと飲んだあと、見るも無残なしょっぱい顔をされた。少し遅れて飲んだ私は、あッと叫んで吐きだした。瓶に池の水が浸入していた。私は、アイディアはいいのだが詰めが甘いのである。ナマグサイ。金魚の味がした。

日本内地の軍隊で終戦をむかえた私は、家へ帰ると、いっぱしの酒呑みになっていた。家に軍需成金の名残りがあったから、米軍兵士が何人も遊びに来たりしていて、ウイスキイは主にフォアローゼズを飲んでいた。

すぐに小さな出版社に勤めるようになるのだが、目白駅近くの屋台でバクダンと称するものを飲んで百米(メートル)も駈けだすとグデングデンに酔うことを知ったりした。肴は黄色く着色されたタクワン一片だったのだから、貧しいとか哀れとかの段階ではない。間借りしていた部屋で、朝起きると目が開かないことがあった。実際に、メチルアルコールで失明したり死んだりした人もいたのだ。

それでも新宿のハモニカ横丁などは賑わっていた。毎晩喧嘩が絶えない。そこへ飲みに行くのは喧嘩場へ行ってみるといったような緊張感があった。ビイルを注文すると、カウンターの客(カウンターだけの店がほとんどであったが)が一斉にこっちを見た。ビイルは高級で贅沢な酒だった。可笑しいのは、痛飲したあと、お汁粉屋へ行ってズルチンのお汁粉を飲む客が多かったことである。体が甘味を欲していたのか。また、これがウマイんである。新宿には、ちゃんとこういう深夜営業の喫茶店があった。

若い編集者の集まりがあって、たまたま手に入ったサントリー・オールドをぶらさげて会場へ入ってゆく、一瞬静かになったあと、響(どよ)めきが起った。オールドにはそれくらいの権威と力があった。

その頃、五味康祐さんがジョニー・ウォーカーの黒ラヴェルを飲ませてくれた。いくらか奇矯の一面のある大流行作家は私を可愛がってくれた。五味さんの家へ行くと、将棋の二上達也八段(当時・現将棋連盟会長)がいて飛角落ちの稽古将棋を指していた。

「ヒトミちゃん、飲んでくれよ」と五味さんが言ってジョニ黒とタンブラーとを私の前に置いた。当時のジョニ黒の権威たるや、これもちょっと言葉にならない。

五味さんなら許してくれるだろうという甘えがあり、将棋に夢中になっているのをいいことにして、私はタンブラーになみなみとウイスキイを満たして、一気にあおった。そんな飲み方をしたのは、それが最初で最後である。また、これまでウイスキイをこんなに美味いと感じたことはなかった。またまた陳腐になるが、真実(ほんと)の美酒がこれだと思った。ウイスキイはストレイトで飲むべきだという私の信念は、いよいよ鞏固になった。

あの威厳は、あの神秘性はどこへ行った?

昭和三十三年、サントリー(当時の社名は洋酒の寿屋であったが)に入社した。

ここでは、ウイスキイを飲むことも仕事だった。酒場(バー)調査なんていう時間外の仕事もあった。他社の新製品を飲むのも勿論仕事だった。私の机の上には自社製品、他社製品、スコッチが常に置かれていた。“洋酒天国”とはこれだと思った。

鳥井社長(当時)、佐治専務(当時・現会長)をはじめとする鳥井一族は酔っぱらいが嫌いだった。私はこれが不思議でしょうがなかった。酒をたくさん飲んで酔っぱらう。だから酔っぱらいが増えれば酒屋は儲かる。なぜ酔っぱらいが嫌いなのか。その意味がわかったのは、つい最近のことである。私には控えて飲む、穏やかに飲むなんて気持がこれっぽっちもなかった。酒は酔っぱらうまで飲むものだと思っていた。つくづくと情ない。

私の部署は宣伝部であるが、ウイスキイはストロングからマイルドに移動する時期に入社したことになる。宣伝文句にストロングはほとんど禁句になりかかっていた。これが私には意外であり不可解だった。私にとってウイスキイは男の酒だった。真剣に飲むべきものだった。だからストレイトしか飲まない。私のウイスキイの歴史からしても酒は特にウイスキイは命がけで飲むべきものだった。「酒を水で割って飲むほど貧乏しちゃいねえや」と、よく酒場で叫んだものである。カクテルなんか飲まない。ジンもストレイトで飲んだ。割って飲むのはハイボールだけだった。いわんやブランデーを水で割るにおいておや。

真剣に飲んだからウイスキイの味がわかるようになった。売れているウイスキイなら黙って一口ふくんで銘柄を当てることができた。東京会館のカウンターバーが好きで、銭(かね)もないくせによく通った。同じショット・グラス八箇をバーテンダーに用意してもらう。そこへ異なるウイスキイを満たしてくれるように頼む。私は別室に去る。主にその間に小便をしたものだ。カウンターに戻って、百発百中、何度やっても間違いがなかった。だけど、言いたかないけど、これは銭もかかった。酔い方も相当なものだった。私は命がけで真剣に飲んだ。

入社して間もない頃、工場の研究室に用事があってサントリーの山崎工場へ行った。そのとき試験管で飲んだウイスキイの原酒の美味かったこと、これも忘れられない。酒類はアルコール度数の高いものほど美味いという宿命がある。ロシアのエリツィン大統領もこの意見に賛成してくれるだろう。私の知るかぎり、エリツィンと、俳優の蒼い目のピーター・オトゥールの二人は強い酒をストレイトで飲む顔をしている。私が山崎工場でウイスキイの原酒の樽の貯蔵庫を見たときの感動をどう伝えたらいいだろうか。私は「俺は、これで、もう喰いっぱぐれにはならない」と思ったものだ。この感動は戦中派でないと理解しにくいかもしれない。ずいぶんセコイ感動だけれど、どんな不況になっても、この樽を切り売

りしていけば喰うことだけは喰える。なにしろ、私はバクダンを飲んで百米も疾走した男なのだ。

さて、いまの私はウイスキイを水で割って飲む。特に寝酒がそうだ。裏切られたと思う方は六十七歳という年齢に免じて許してもらいたい。高齢となって喉、食道、胃を保護しなければならなくなっている。

若い人たちは酒を飲むのが上手になってきた。私のように命がけで飲む馬鹿者は相手にされないだろう。若いサラリーマンが高価な酒を飲む。女性が煙草を吸いながら体を傾けてチビリチビリやっている。屋台村なんてものがあって、これが大入り満員の盛況であるという。赤提灯はうらぶれた中年男の行くところではなくなった。女たちは二次会三次会も平気でつきあう。早く消えてくれと思う時がないわけではない。しかし、これが大衆社会化状況の行きつく果てなのである。

ウイスキイの威厳が失われつつある。畏敬の念がない。神秘性も消滅しかかっている。

これはウイスキイだけのことではない。世の中全体がそうなってきた。概して言えば、これは良いことだろう。

私は、依然としてウイスキイを愛している。なんだか自分の人生そのものであったような気さえしている。あるいは最も信頼できる友人か。この感じは、やはり、百米の疾走から来ているように思われる。だから、私は、これからも変らずにウイスキイという酒には畏敬の念を抱き続けてゆくことになるだろう。