1/2「喧嘩人 - 佐藤愛子」日本の名随筆60 愚 から

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1/2「喧嘩人 - 佐藤愛子」日本の名随筆60 愚 から

私はよく喧嘩をする人間として知られている。人の喧嘩の話を聞くのも好きだし、自分の喧嘩を話すのも好きだ。私が喧嘩の話をすると聞く人はみな感心した顔になる。本当に感心しているのではなく、呆れたり驚いたり顰蹙[ひんしゅく]したりしているのかもしれないが、私には感心しているように見えるのである。それで喧嘩の話をしていると、何か自分が他の人には出来ないことをやった勇気ある人間に思えて来る。それが大そう気持よいのである。
私の家系には喧嘩好きの血が流れている。私の父は一生を喧嘩に過した人であった。少年時代は毎日、一度は殺すか殺されるかの喧嘩をしたと自分で書いている。中学を退学になって青年時代は国粋主義者陸羯南[くがかつなん]の書生となったが、この時代も近所の書生と喧嘩ばかりしていた。鍋島候の土佐犬を殴り殺したという。人間だけでは足りず、犬まで相手にしていたのだ。
少年時代は少年を相手に喧嘩をしていたが、壮年になると仕事先と喧嘩をするようになった。そのため、職を転々としなければならなかったのである。
私には四人の不良兄貴がいたが、そのうちの三人はやはり喧嘩をしては問題を起していた。三番目の兄だけが軟派で喧嘩をしない不良だったが、父ははその兄のことを一番よく怒っていた。
「あいつは柔弱で駄目だ」
兄の中では四番目の兄が一番喧嘩好きだった。ある日四番目の兄は鼻血を出し、血だらけになって帰って来た。兄はうどん屋の店員と喧嘩したのだ。兄がうどん屋でうどんを食べていると、
「お前のところの親爺は武庫川の土堤で三銭のアメ湯を飲んでだぞ」
うどん屋の小僧がいったのだ。
「オレの親爺がそんなことをするか!」
というと、小僧はさらに、
「アメ湯飲んだあとで、自転車片手に立ションベンをしとったぞ」
といった。それで兄は小僧を殴った。小僧が殴り返したので大乱闘になり、うどん屋の椅子は何脚か壊れ、割れた窓ガラスと共に父は弁償させられたのである。
父はよく怒る人間だったがこういうことでは怒らなかった。
「バカな奴だ!」
と吐き出すようにいったが、その後で満足そうにアッハッハッハァと笑ったのである。
健全な家庭ではいうまでもなく喧嘩は悪徳として子供に教えるであろう。しかし我が家では喧嘩は悪徳ではなかったのだ。嘘をいったり、金を欲しがったり、人をごまかしたりすることは悪徳ではあったが、むしろ喧嘩は日常の潤いのような感じさえあった。喧嘩の話となると父は上機嫌で、
「アッハッハッハァ」
と笑うのである。従って私の家には気性の激しい人間が自然に集まるようになった。穏和な人は、
「あいつは駄目だ、覇気がない」
といわれる。佐藤紅緑は躁病だとなだいなださんがいったことがあるが、その躁病の血は私にも流れているのである。私はよく仕事先と喧嘩をしては、原稿料や対談料を叩き返し、どうしてそんなバカな喧嘩をするのだと人から不思議がられるが、喧嘩のための金の損は少しも損とは思わない。その損は私の喧嘩史を彩るからである。もしかしたらヤクザのにいさんがホッペタの傷跡を誇る気持はこれと同じかもしれない。