「第十二章 東京へ帰ったことと航海のこと(抜書) - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ医局記 から

 

 

「第十二章 東京へ帰ったことと航海のこと(抜


書) - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ医局記 から

さて有給助手になって一年が経とうとしていたころ、やはり医局へ帰ってきたナリタさんが、水産庁マグロ調査船「照洋丸」の話を持ちこんできた。私がその前に船医になろうとしていたことを知っていたからである。これがいわゆる「マンボウ航海記」となる。
まだ居候をしていた兄の家でみんなに話すと、わずか六百トンの船で北ヨーロッパまで行くのは危険だと反対された。ただ一人、母だけが、
「男ってものは、若いうちはどんどん苦労をしなくちゃいけません。あたしは賛成です」
と励ましてくれた。母は祖父の血をうけて進取の気性に富んでいたし、男まさりのところがあったからである。
船医というものは患者が出なければ暇である。私は日がな世界地図を開いて、あれこれと夢想に耽ったものだが、日本製の地図であるから、日本は小さな赤い島国として描かれていた。それを見ると、私は自分が母国についてほとんど何も知らないことを痛感した。帰国したなら、日本の古典などを読もうと心に誓った。宇宙飛行士が地球を離れてはじめて母なる惑星のことを考えるのと同様、人は国を離れてはじめて祖国のことを考えるものなのだ。偉そうなことを書いたが、私は帰国するとパチンコなんぞばかりしていて、本当に縄文・弥生時代のことを読みだしたのは中年になってからである。縄文文化がやはり日本の礎[いしずえ]といってよい。時代を経るにつれ、日本人の美点よりも悪しきところのほうが増えてきた。
私は、それまでに三つの小説を「新潮」に発表していた。無名の新人作家がちっぽけな船に乗ってきたというので、三つほどの出版社から航海のことを書かないかと依頼があった。しかし私は純文学だけを書いて行くつもりであったから、すべて断った。そのなかの一つが中央公論社で、宮脇俊三さんが担当であった。彼だけは諦めずに、時々酒をつきあってくれながら、「もし気がむいたら書きませんか」というふうにやんわりと勧めてくれた。まるで女を懐柔するような悪辣な手段である。そのままだったなら私は本を書いていたかどうか分からない。だが、航海の終り頃から十二指腸潰瘍を病んでいて、『夜と霧の隅で』が難航し、潰瘍がますます具合が悪くなった。私は酒をやめたり薬を飲んだりしたが、結局ストレスが何より悪いと気がついた。それで宮脇さんの申し出を受諾することにし、その年の十二月から翌年一月末にかけて三百枚を書き下ろしたのである。

題名には苦労した。江戸時代に「○○先生行状記」というような本が多かったから、「どくとる○○航海記」としようとしたが、その○○に困った。前にも触れたが、結局、航海中にマンボウが一匹釣れたことと、語呂がよいので「マンボウ」とした。ところが当時は踊りのマンボが流行っていたから、しばしばマンボと間違われたものだ。駄洒落のみがうまい田辺茂一さんが「マンボと言われゃ何でも踊るか」と言ったことがある。これはくだらないが、「頭はザルで名はモリオ」と言ったのはちょっとうまい。
私は自費出版の『幽霊』があまりにも売れなかったので、本が売れるということをまったく期待していなかった。ただ出版された時はさすがに胸がときめいたので、どこかの精神病院を見学に行った帰途、近くの小さな本屋に寄ってみた。すると自分の本が見つからない。店のおばさんに聞いてみると「いま、増刷中です」という。私はその言葉が信じられなかった。そこで新宿の紀伊國屋書店に行ってみた。そこにも見当らない。ただ、平積みの本の1個所が空いていて、そこに『航海記』の帯が落ちていた。それを見て、本当に初版は無くなったのだなと思った。もっとも、それは七千部である。
私は初版というものは誤植が多く、それを直したあとの版の方が大事だと思っていた。なにせ初版には誤植がやたらと多かったからである。のちに聞いたところによると、校正係の男が新婚ホヤホヤで、新人のゲラなんぞはろくすっぽ見なかったらしい。そのため私は手元にあった初版本をみんな人にあげてしまった。かなり経ってやはり初版本が大切なことを知って、その頃つきあいだしていた女性、つまりわが女房さまに呉れてやったのを返してもらった。一冊きりではさみしいと思ったから、古本屋から中くらいの値段のを一冊買った。何より表紙の写真も私が撮ったものだったからである。昨年慶應病院神経科の教授になっておられたホウさんの退職記念会に出たところ、かつて心理室でロールシャッハ・テスト係であった女性が、「あの本が売れたのは私のおかげよ」と言った。何でも私は二枚の写真を持ちこんで、どちらがより好印象を与えるかテストしてくれと頼んだそうである。
ともあれ、私はこの本のおかげで作家業につくこととなった。兄の医院で週二日診察を続けるほか、怠け怠け書いていた。
『航海記』を出して一年後私は結婚し、それからおよそ半年後現在の家に移ったが、兄の医院での診察に際してもっとも難儀をしたのは生来の朝寝坊ぐせであった。夜型の私は作家業に入ってから決して勤勉ではなかったけれど、時には夜明けまで仕事をした。なかんずく『楡家の人びと』を書き出してからはよく徹夜をしたものである。
しかし翌日に診察がある時には、前の夜は早寝をする。なぜならノイローゼ患者、ことにヒポコンデリー(よく男のヒステリーと思っている人があるが、日本語で心気症、つまりどこも悪くないのに自分はなんらかの病気だと思いこむ神経症の一種)の患者などは医者が眠くて渋い表情をしていると、いくら、
「あなたは何でもないから安心しなさい」
と説明しても、自分はやはり重症で、この医者は安心させるために気休めを言っているのだろうと信じこむからである。それ故、精神科医は、患者によっては無理にも笑顔を見せたり、声色一つにしても注意せねばならない。
ところが前夜いくら早く床についても、長年の習慣上どうしても早く眠ることが出来ない。午前三時近くなってまた眠剤を追加することは実にいやなものである。そして四時間ほどの睡眠で、はじめは満員電車に揺られ、市電に乗り換え、ようやく医院に着いて、患者の症状によってはしょぼしょぼする目で無理に笑顔を作って見せるのはかなりの労働であった。

私が入局した頃から精神科が神経科と呼ばれるようになり、とりわけノイローゼという言葉がマスコミで使われるようになってから、それまで内科へ行っていた単なる頭痛持ちの人や不眠症の人などが安心して神経科を訪れるようになったから、患者数はずっと増えていた。その上、患者の訴えを聞き、説明してやらねばならぬ時間がずっと多いし、言葉一つに対しても気を遣うから一日の診察が終ると、それこそぐったりとなる。
たとえば不眠症の患者にしても千差万別である。昔は内科医は普通一種の眠剤を与えていた。しかし二種三種の眠剤をまぜたほうが相乗作用でよく効くし、また習慣性を持つことも少ないものである。同じ種類の眠剤の量が増えていくのがもっとも中毒に陥り易い。今では精神安定剤の類いが主流になっていて眠剤中毒も少なくなっているが、それでもなおこうした薬に不安を抱く患者も多い。
私の父も不眠症の気味があって、よく眠剤を飲んでいた。かつて宇野浩二氏がある種の精神病になって、友人の広津和郎氏が父に相談した時、父は自分の飲んでいる眠剤を与え、
「これは私が飲んでいる薬だが、はじめての人には強いだろうから半量を与えなさい」
と言ったのは有名な話である。
私はこの逸話が念頭にあったから、不眠を訴える患者に眠剤を処方し、
「こういう薬を飲んで中毒になりませんか?」
と不安を訴える人には、こう言うことにしていた。
「いや、これはぼくが飲んでいる薬の半分の量だから大丈夫です」
すると一部の患者は安心したような顔をし、逆に一部の患者は、
「この医者は本当に大丈夫なのだろうか?」
と言った顔付をしたものだ。
その頃は、私が副院長格であり、兄の診療日の次に患者が混んだのは私の日だったと思う。ついつい私は顔付から声色までを人に応じて変えねばならぬノイローゼ患者よりも、単に注射や投薬すればよい神経痛患者が来た時のほうがほっとするようになったのを憶えている。精神科医は出来るだけ優しい声を出すべきだが、すべてが同様であってもならない。たとえばならず者の麻薬中毒者などに「今日のお具合はどうですか」などと丁寧な言葉をかければ、医者はナメられてしまって、治療もうまくいかないものだ。
兄の医院に電車で通っていた頃から半年目、私ははじめて車を買った。コンテッサという小型車である。これで通勤するにも楽になるであろうと思っていたところ、ちょうどその頃から車のラッシュがはじまった。
道が混むうえに、当時は小型タクシーにコンテッサが使われることが多かった。それで私がノロノロと運転をしていると、道端で手をあげて呼びとめる男がいる。何だろうと思って停車すると、男は乗り込んできて、「チェッ、タクシーじゃねえのか」といって降りていくこともあった。こんな風に再三タクシーと間違えられるので、せっかく車を買いこんでも、兄の医院に着くまでには電車で通うよりも時間がかかる始末だった。ようやくのことで兄の医院の傍まで行くと、今度は駐車する所がなく、附近を三周ぐらいもしなければならなかった。九時の診療時間に十五分も遅れてとびこむと、もうカルテが十枚もたまっている。それを見ただけで何か情けないような気持がしたことを告白する。

逆にカルテが少なく、それもあれこれ気をつかわなければならぬノイローゼ患者のものもたまっていない時は、心底から安堵したものだ。といってそういう時でも、逆に困った場合もある。
私の診察日にいつもやって来た分裂症の破瓜型の女性患者がいた。この病気は際立った妄想や幻聴もなく、何だか怠け者になっていく長い年月のうちに、次第に植物状態になっていくものである。クロールプロマジン系の薬を与えてよくなる者はよくなるが、そのままじりじりと悪化していく者もある。精神療法はほとんど意味がない。私はこの患者が来た時に、投薬し経過を見たけれど、どうやら後者のケースのようであった。そこで一種の作業療法のつもりで、点字協会の場所を調べ、
「君はなんにもやらないのがいけない。点字というものは盲人の役に立つ。その協会に入って点字をやってごらん。そうすれば君の病気にもよいし、この世の役に立つから」
と指図してみた。彼女はそれに応じてくれた。しかし、なにせほとんどのことをやりたがらぬ破瓜病患者のことである。それに点字というものは私が思っていたよりも難しかったらしい。一月も経つと、彼女はもうやる気がなくなったと告げた。あまり時間もかけられぬ外来患者のことである。私もそれ以上彼女に強要することは出来なかった。
その患者が、たまたま患者が珍しく来ない時に来ると、私としては口説療法[ムント・セラピー]は無意味だし、その後の彼女の日常を訊ねるくらいで、他に言うこともなくなってしまう。相手は口数の少ない無力な女性である。しまいには二人とも言うことがなくなって、お互いに困惑笑いをするしかなかった。特殊な患者ではなく、ありふれた投薬を続けるほか方法がない患者であるだけ、私にはなにがなし悲しかったのである。
私の少年時代、青山の病院でピンポンのバットを投げつけられて、その時だけは怖しかったNさんという女性患者のことを先に書いた。 私が精神科医になった頃、兄嫁の父が経営していた精神病院に行ったところ、何という偶然か、そのNさんがそこに入院していたのである。私が「ぼくのこと憶えているかい?」と尋ねても、もとより彼女が記憶しているはずもなかった。彼女は昔のようにヘラヘラ笑いながら、向こうの方へ駆けて行ってしまった。いくら治療が進歩して来たとはいえ、一部の精神病者はこのように生涯を病院内で送らねはならぬのである。私の祖父ははじめは医学百般をやり、「人から感謝される医者」であった。それから精神科を主とするようになってから、「感謝されざる医者」となった。その跡を継いだ父は、治療法が未熟な時代であったから、「もっとも感謝されざる医者」であったと思う。現在は治療の面でこそ格段に進歩しているにせよ、精神科医はこの気持を決して忘れてはいけないと思う。
分裂病者の症状にしろ、時代によって変っていくものである。もっともありふれた被害妄想、たとえば誰かが自分の悪口を言っているという幻聴にせよ、私が入局した頃は天井裏に誰かがひそんでいて陰口をきくというようなものが多かった。それがテレビ時代になると、テレビで自分の悪口を放映するという訴えも多くなった。
都会の大病院では、私が山梨の県立精神病院で体験したような、タヌキやムジナに憑かれたような患者はいなかったものだ。時代とともに妄想や幻聴は変化する。兄の医院には数室の入院棟があった。一人の分裂病の老婆は、北極から電波が聞こえてくると訴えていた。その上、彼女の個室には白黒のテレビが置いてあったが、それを少しも見ないので、「どうしてテレビを見ないの?」と訊くと、白壁を指して、「こちらの方がカラーですから」と言った。彼女にはなんにもない白壁にカラーの画像が映っていたのであろう。
これは私が同輩から聞いた話であるが、もっとも奇妙な幻視の例として、米のめしの一粒一粒に人間の目が見えるというのだ。御飯を食べようとすると、たくさんの御飯の粒々から人間の目がにらんでいるので、どうしても食べられぬという。
私は兄の医院で診察するほか、小説を書き、ごくたまに慶應神経科に行き、ムダ話をして帰ってきた。そんなふうにして一年も経った頃、M教授が私を呼びとめて言った。
「君、ボツボツ助手をやめてくれんかね」
かくして慶應神経科としては、まさしく珠玉(?)を失ったのである。私は航海に出る前に有給助手の資格を他人に譲って行ったのに。少々大げさに言えば阪神タイガースフィルダーを放出したがごとき愚挙といえよう。