1/2「綺堂のことば - 山本夏彦」 文春文庫 完本文語文 から

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1/2「綺堂のことば - 山本夏彦」 文春文庫 完本文語文 から
 

出版社が本のなかに読者カードをいれてくれることがある。あれを読むのは楽しみである。旭川医科大学の学生十九歳がおよそこんな意味のことをカードに書いてくれた。
ちか目(近眼)つけび(放火)絵そらごと(フィクション)手水場(ちょうずば=便所)などぼくは知りませんでした。聞いたことがある言葉もあるが、多くは初耳でした。字を見れば分るのもあるが、ちょうずばは読めなかった。これが括弧内の意味であること、「日常茶飯事」「冷暖房ナシ」などでずいぶん教わりました。それでも私がこれらを自分の文章のなかで使うことはないでしょう。ただ知るだけにとどまるでしょう。

私は言葉を武士の言葉と町人の言葉、男の言葉と女の言葉、山の手の言葉と下町の言葉に分けることがある。この百年は山の手の言葉が下町の言葉を征伐した時代である。便所をはばかりと言うのはどちらかというと町人か女たちで、手水場は男女が共に言うこと今のトイレに似ている。
そういえばトイレ、ことにおトイレには抵抗があったが、それもつかのまで、今では平気になった。けれども「どこへ?」「おちょうず」というほうがきたならしくない。
侍の言葉は武張(ぶば)ってえらそうだが、内容は空虚である。けれどもえらそうなのは何よりの魅力で、その誘惑に耐えかねて、明治初年これまでなかった保険、弁護士、銀行などを、はじめ災難請合(さいなんうけあい)、科人(とがにん)利益代言人、銭屋(ぜにや)などと訳したが、えらそうでないので採用されなかった。
いくらえらそうでも漢語は野暮だと明治年間まで下町では笑うものが多かったが、大正になってやんだ。それでも女は女学校(いま高校)まで、その上へは行かなかったから、家庭では昔ながらの耳で聞いて分る言葉が使われていた。男も家へ帰っては漢語は使わなかった。言語生活でくつろぐというのはこういうことだった。すなわち大和言葉を守ったのは婦人で、その婦人に育てられた子供は長じて勤めさきでは漢語を、家では大和言葉系の平談俗語を用いた。
およそ耳で聞いて分らぬ言葉なんか言葉ではない。なん百年来それを子に伝えたのは母親で、男はまかしていられたのに、女が大学に行くようになって男女の言葉が同一になるという椿事が生じた。
いま片カナ語が氾濫しているが、これは漢語を用いてえらそうに見せたのと心は同じである。それならとがめることはできない。だから私は目に文字のない職人の言葉、役者の言葉、芸者の言葉のなかに採るべきものをさぐったのである。十九歳の大学生が聞けば分かるという。私は分らないのはあげないが、すれすれなのはあげる。
私が片カナ語を使うまいとするのは語彙が滅びるからである。ひとたびトイレを採用するとトイレだけになって、はばかり、せっちん、ちょうず場、ご不浄以下は全滅する。「ドン(午砲)の鳴る時分に起きる人がありますものか」これは母親がドラ息子に意見しているところである。ありますものかという言いかたは今は絶えた。字句だけでなく言い回しのなくなったものこそあげたいと以前いくらかあげた。「おさきへ」「もうお上んなさるの」「ごゆるり」右に手拭、左にお約束の道具一式、これは銭湯の女客がかわすあいさつである。
「中谷さんというお客様がいらしっているはずだが、おいでか」
前にもあげたがこれだけで料理屋の玄関口で客が女中に問うている風貌姿勢が分る。「おいでか」なんて一度使ってみたい、荷風散人の「冷笑」で見た。
ぼくらが学校へ通うころには、ずい分ぶらぶらした「袖の着物」を着た。明治四十三年には夏冬とも絣の筒袖ときまった。
これは谷崎潤一郎。制服というものこのころまだなかったと分る。袖の着物というのはたもとのある着物のことで、大正のなかごろ幸田文は弟が中学生になったので袖の着物を縫ってやっている。小学生までは筒袖(つつっぽともいった)、中学生になると袖を長くして大人並にした。もっともこれは着物を着なくなったから滅びた。
着物を着なくなって以来着物に関する言葉も滅びた。ゆき、たけは残っても、みごろ、おくみ、ふきは近く死語になろう。「帯しろ裸はよしとくれ」というコラムを私は書いたことがある。帯をしめないで細帯だけ、つけ紐だけの姿を帯しろ裸という。
温泉場のホテルで女たちが丹前だけで歩く姿は醜い。男女とも以前は着がえを持って旅した。鴎外の「金毘羅」に鴎外らしい人物が宿についてカバンから着がえを出すところがある。
私の知るのは昭和十年代であるが、今と同じくもう丹前姿ばかりだった。
「なにしろ悪く寒いね」「この二、三日冴え返りました」
「お茶代は私に払わせて下さい。年よりに恥かかせちゃいけない」
「博奕はよせよ。路端(みちばた)の竹の子で身の皮をむかれるばかりだ」
以上味な口をきいているのは誰あろう、捕物帳でおなじみの三河町の半七親分だと出久根達郎はその「古書法楽」に書いている。
「おい、素直に何もかも言っちまえ。(略)脂(やに)をなめさせられた蛇のように往生ぎわが悪いと、もうお慈悲をかけちゃいられねえ。さあ申立てろ。江戸中の黄ハダ(難漢字)を一度にしゃぶらせられた訳ではあるめえ。口のきかれねえはずはねえ。飯を食うときのように大きい口をあいて言え」
半七捕物帳の作者岡本綺堂は東京は芝山内(さんない)の生れ、劇作家だから半七にこれだけの口をきかせることができた。車にひかれそうになってもバカヤロー、ひそうになってもバカヤロー、悪口にせよほめ言葉にせよ僅か五、六十年で私たちの言葉はこんなに貧しくなったのである。なおとめどなく貧しくなれと言うのか。