「俎豆千秋 屈原にあやかる - 邱永漢」中公文庫 食は広州に在り から

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「俎豆千秋 屈原にあやかる - 邱永漢」中公文庫 食は広州に在り から
 

俎豆(そとう)とはお祭りのときに供物をのせる器のことだといったら、人をバカにするな、と叱られるかもしれない。中学や高等学校で、いわゆる漢文が必須科目であったころは、こと古文に関するかぎりは、日本人のほうが中国人よりも素養があったように思われる。
しかし、戦後は当用漢字やら略字の奨励で、年寄の立場から見れば、字の読めない書生が大量に製造されたことになるらしい。時世の赴くところで慨嘆するほどのこともないと思うが、子母沢寛先生からおききしたところによると、最近は剣豪ブームであるにもかかわらず、仇討という字の読めない者が多いそうである。じゃ、なんと読むのですか、と伺ったら、シリウチだということだった。食べ物の話を書いている最中だから、俎豆をナ タマメとでも勘違いされたらたいへんと考え、失礼を承知で、冒頭から漢学先生ブッテしまった。
漢文といえば、「人之初、性本善」ではじまる三字経が私たちの字を覚える手始めであったが、小学校、七年制高等学校、帝国大学と一貫して日本語の教育を受けたので、棒読みするほうが自然なところを、わざわざ、句読点をつけてひっくり返して読む修練を積まされた。それでは困るというので、学校がひけてから、べつに漢学先生について論語や大学を福建音で勉強させられたが、日本語のまったくできない老先生は、ひっくり返して読むにせよ、日本人が漢文を読むことができるのだからたいしたものだと口癖のように言っていたのを記憶している。ところが私自身は棒読みだろうが、ひっくり返しだろうが 、とにかく、漢文は好きではなかった。後になって、好きでなかった理由が自分でもわかるようになったが、その一つはテキストの思想内容を理解し得る精神年齢に達していなかったこと、もう一つは教えてくれる先生が近代的な知識を持ち合わせていなかったこと、のように思われる。当世では象形文字は非科学的だという説が横行しているが、実はこれが中国の社会が再三再四分裂の過程をたどりながらも、ヨーロッパのような形にならずに、いつも統一へ戻った大きな要因の一つをなしているのだから、そうバカにしたものではない。また形象からきた文字は一度覚えると、なかなか忘れないものである。したがって私は漢文はもっと大人になってから勉強しても遅くないし、その場合、思想の背景になってい る社会の説明や東西思想の比較対照をしてくれるような教師がいてくれたら、どんなにいいかしらと思うのである。
さて、五月といえば、端午の節句端午の節句には五月人形を飾り、幟を立てるのが日本では年中行事のひとつになっている。これはいずれも日本独特の風習であるが、粽(ちまき)を食べるのは中国でいまだに広く行われている。旧暦五月五日は、だれでも知っているとおり、楚の忠臣屈原が石を抱いて汨羅(べきら)の流れに身を沈めた日であり、当時、土地の人々がこの高潔の死を悼み、せめて河中の魚がその死骸を食べないようにと、竹の葉に飯をくるんで水中に投じたことに起源しているといわれる。
新興宗教も併せて、世に教義は数々あるが、古今東西を通じて変わらざる二大宗教に「男 は度胸、女は愛嬌」なるものがあるそうである。中国には昔から「士可殺、不可辱」ということばがあって、もののふは生死を眼中におかないのが常識である。日本人が端午節を男の節句と定めたのはけっしていわれのないことではない。
しかし、いかなる故事もいったん年中行事化してしまえば、見たり、食べたりして楽しむほうに気をとられるのが人情だろう。日本でも田舎へ行けば、いろいろと変わった粽があるらしいが、私が食べたかぎりでは、甘いのがいちばんふつうで、江戸の味と称して、鯛や海老を入れたすしの粽などは変りダネに属するようである。中国ではこれと逆に、塩味のほうがふつうで、甘いのはカンスイツオン(?水粽)一種だけである。
この カンスイツオン(?水粽)は九州あたりにも伝えられているときいているが、糯米を一晩水に浸し、翌日、カンスイ(アルカリ性の液体で、市販している)をまぜ、竹の葉で包み、熱湯でよく煮たものである。できあがったのをむいてみると、糯米の形が崩れ、全体が飴色に透きとおって、見た目が非常に美しい。これに白砂糖をかけて食べるのであるが、旧暦の五月は陽暦ではでに六月中旬、南国ではもう真夏の暑さだから、冷蔵庫に入れて、うんと冷たくしてから食べるのがいちばんおいしい。
ところが辛口になると、地方によって作り方がいろいろ違う。私の生まれた台湾では、菜粽(ツオイツアン)と肉粽(パアツアン)の二種類があり。菜粽は、生の南京豆を糯米とまぜて竹の皮で包み、肉粽の中には糯米のほかに 豚肉や海老(蝦米でもよい)や椎茸などを一度醤油炒めしてから入れる。これを一時間ぐらいお湯の中で煮ればできあがるが、朝早く盛り場に行くと、いつでも屋台で売っている。さめないように桶の中に入れて麻袋をかけてある中からほかほかしたやつを取り出して紐をほどき、竹の皮をはいでくれるときの光景は思い出すだけでも懐かしい。これに唐辛子やにんにく醤油をかけて食べるのである。
台湾の肉粽は三角形に包んであるので、総督府から派遣されて洋行に出かけた私の高等学校の先生がエジプトでピラミッドを見たとたんに、肉粽を食いたくなった、と述懐していたことがあった。また、小学校のころ、私の級友たちはたいてい私の家で肉粽のふるまいにあずかったことがあるくせに、私の顔の輪郭が 似ているといって、バアツァンというあだ名を私に押しつけたことがある。
しかし、所変われば品変わるで、広東人の粽はまず第一に形が違う。彼らは竹の皮でなくてもっぱら竹の葉を使用し、まん中に米や具を入れると、両端をたたみ、ついで縁を折って、細長い形にしばりあげるのである。中身も南京豆の代りに、緑豆(日本でもやしをつくる豆)を使い、豚肉のほかに蒸した鶏の肉、栗、または蓮の実を加える。福建人とのいちばん大きな違いは、長い時間をかけて煮ることで、このため糯米の形が崩れて、餅のような状態になってしまう。その代り鶏や蝦米や豚肉のうまみが米の中によくしみこんでいるので、竹の香りも混じって、一種ひなびた味がする。熱いうちはそのまま食べるが、翌日になると、輪切 りにして油で焦げかげんに炒めるねが最も食欲をそそる。
それからもう一つ、どういうわけだかいまもって知らないが、私の家では、端午節の正午、サイレンが鳴るのを合図に家じゅうのものが総出で、西瓜を食べる習慣があった。冬瓜や南瓜についてもいえることだが、日本人の目から見るとそれこそお化けのような大きな西瓜が南の国ではできる。ふつうの赤い西瓜のほかに、俗にレモン西瓜といって肉の黄色いのもある。南瓜だけは日本のほうがはるかにおいしいが、冬瓜、西瓜は質量ともに南方のものが出来がよいように思う。
西瓜をしゃぶり、粽を食べ、夕方になると、一家連れ立って、ペイリョウツン(?龍船)の見物に出かける。台南市には、町はずれから海まで緑したたるような美しい運河が流れ ていて、この日になると、市場のあんちゃんたちが紅白に分かれてボート・レースをやるのである。龍船は十五人から二十人ぐらい乗り込むことのできる細長い船で、舳に龍頭、艫に龍尾を描いてあり、爆竹を鳴らし、銅鑼を打ちながら、水中を進むさまはまことに威勢がよい。
しかし、当時のレースに参加する大ぜいの選手や見物人のなかで、これがあの汨羅の淵に身を沈めた屈原を弔う行事だと知っている者がはたして何人いるだろうか。五月がくれば、人々は粽を食べ、運河に出て?龍船に打ち興ずる。漢学先生だけが「飲水思源」を説き、アプレ青年はナタマメは秋に実るものかな、などとうそぶくのである。