1/2「東京年中行事 - 永井荷風」河出書房新社 生誕135年・没後55年永井荷風 から

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1/2「東京年中行事 - 永井荷風河出書房新社 生誕135年・没後55年永井荷風 から

五月

五月朔日都人衣を更う教坊の児女これを移替という。二日八十八夜別霜とて此夜より霜気全く消ゆ。五日端午家々幟を立て人形を飾る十軒店を始め三越白木屋呉服店にても人形を陳列して売る。柏餅の外[ほか]にちまきを食う事殆ど都下の例となれり、赤坂ちまき屋麹町塩瀬芝の壺屋なぞ皆ちまきを売る。此日八せんなり。六日九段靖国神社大祭旧馬場跡に見世物沢山出る近隣の学校休業するものもあり。六日立夏孝経緯に「穀雨後十五日斗辰東南維を指す立夏と為す」とあり而[しか]して立夏より後十五日斗巳を指す時即ち小満なり小満を過れば青梅黄く蜀葵則[すなわち]長しと物類相感志に見ゆ此月上旬藤花尚衰えず亀井戸天神浅草公園の池上紫雲猶棚曳きて消えず。躑躅[つつじ]は中旬満開日比谷公園を以て都下第一の美景とす牡丹花は品川岩崎男爵邸最よしという市人の随意杖を曳き得る処は本所四ツ目目黒大黒屋なるべし大黒屋の筍飯今に至って矢張[やはり]名物なり。市中豆腐屋にて売る木の芽田楽味うに足る。新樹は市中随処によく殊に山ノ手一帯の市街尽[ことごっ]く園林の趣をなすに至る。されど殊更に杖を曳かんとせば小石川植物園第一なるべし。下旬に至りて菖蒲開く近頃は堀切よりも蒲田鶴見辺の新しき花園却[かえつ]て雅客の歩をひくようになり。此月中旬より十日間大相撲あり。新橋芸者東会(踊の大ざらい)大抵此月上旬歌舞伎座に開かるるを例とす。

 

六月

朔日旧暦の頃は江戸市中富士参りにて賑う日なり新暦となりても音羽駒込深川なぞのお富士様へは今猶参詣する人ありと覚しくこの日その近辺にて麦藁細工の蛇を売る媼[おうな]を見る事あり購[あがない]帰りて家の竈の上に釣し置けば火防になるという。巡査官服此の日より白くなる都人多くセル、フランネルの単衣を着す。六日芒種九日旧暦五月朔日に当る十二日梅雨に入る十三日旧暦端午の佳節なり、艾[よもぎ]、葛葉、車前草、ハコベ[難漢字]を始め大方の薬草昔より此の日を以て摘むべきように云い伝えたり。張籍が詩に曰う「開州五日ノ車前草。(以下漢詩略)」十四日永田町山王祭礼の夜宮なり蜀山人色五題の中[うち]赤の部に曰う「山王の夜宮の桟敷しきつめて店の桂もつつむ毛氈。」麹町大通より四谷見附外又銀座より日本橋大通両側の商家いずれも絵行燈花傘なぞを連ねいだす事毎年の例なり十五日山王祭礼当日廿一日旧暦五月十三日にして竹酔日又は竹迷日といい竹を植替えて枯れざるは年中此の一日のみ限るが如く云伝うれども梅雨中なればよろし竹は他の時節にては植替むずかしきものなり。廿二日夏至月令広義に夏至の日菊を取り灰と為せば小麦のムシバミ[難漢字]を止むと曰[い]えり。この月菖蒲薔薇紫陽花金糸梅百合時計草夏菊蕃紅花卯の花等夏の花皆開かざるはなく果実菜蔬魚介の新味いよいよよし正に是ヒラ[難漢字](魚片に時という漢字です。“はす”“えそ”とも読むとありました。)魚市に上り枇杷黄なるの時節、市中水菓子屋の店頭この時節ほど見事なる時なかるべし桃は近年天津桃及水蜜桃というもの普通にて日本在来の桃漸[ようや]く得がたくなりたり。五月より六月に至りて夕陽の空ますます美しく鱗雲シバシバ[難漢字]描けるが如し梅雨中雨なく空薄く曇りし日は青葉を渡る風涼しければ人をしておのずから杖を曳かしむ。

 

七月

朔日旧暦五月二十三日に当るこの月男夏羽織絽[ろ]より紗[しゃ]に換わる女七八両月の間明石縮[ちじ※み]の帷子[かたびら]を着るを例とす紗のコート数年以来猶すたれず中形浴衣の上にもこれを着るもの多し。三日半夏生八日小暑なり梅雨明くるの日古来一定せずイエドモ[難漢字]大抵小暑の頃なり。蝉鳴出で暑気日を追うて甚し。十日浅草観世音四万六千日十三日王子権現祭礼又この日より市中諸処に草市立つ人々中元ね進物を贈答す十五日盂蘭盆十六日閻魔参り二十日土用に入る家々衣を曝しまた書を曝す掘井戸ある家にては井戸替をなす二十四日大暑二十九日土用の丑の日この日鰻を食う例あり。三十日明治天皇祭なり。この月上旬官立私立の別なく学校皆暑中休暇に入る。森ケ崎新子安王子井の頭角筈十二社等近来都人納涼の地となり芸者酌婦飯盛女のたぐい年々其の数を増すと云う。梅雨中草花尽[ことごと]く生長繁茂し梅雨あくるや直[すぐ]に花をつくるもの多し罌粟[けし]、薊[あざみ]、撫子[なでしこ]、日廻り、紅蜀葵、鳳仙花、白粉花[おしろいばな]の類[たぐい]各[おのおの]妍[けん]を競う。土用に入るや朝顔あり蓮花ひらき菱また紫の花をつく。西瓜眞桑瓜[まくわうり]熟し梨子葡萄漸く甘く胡瓜茄子蓴菜じゅんさい]ショウガ[難漢字]風味あり鮎正に肥え鱸[すずき]既に長ず。鯉、鰌[どじよう]、芝海老、鯰[なまず]の如き川魚皆暑中によし。土用蜆[しじみ]とてこの月土用に入れば蜆売の声す。明人朱国?が梅家蕩櫂歌に曰く梅家蕩口蜆子黄。瓜皮?船七尺長。剪取東園白頭韭。蛤蜊風味勝横塘。そぞろに人をして墨堤酒家の趣を想起せしむ。


八月

朔日は旧暦六月二十五日なり八朔の白小袖今はただ清元北州の唄にのみ名残をとどめて仁和加[にわか]も燈籠もありやなしや八日立秋秋十三日旧暦七夕にあたるといえども星まつるならわし又既にすたれたれば一茶が句にいえる野らの芒を願の糸と見る人もあらざるべく蕪村が句恋さまざま願の糸の白きを思う人もなかるべし。十五日都の八幡宮深川富ケ岡芝西ノ久保をはじめとして市ヶ谷高田築土若宮今戸蔵前等いずれも祭礼二十四日処暑二十五日亀井戸また上野広小路天満宮祭礼なり二十八日駒込赤目不動開帳三十一日天長節。この月半頃まで暑気前月にまさりていよいよ堪えがたし人々家を携えて猶海辺山中に避暑す然れども夜に入れば涼気次第に生じ空には稲妻ひらめき銀河影あざやかに澄み草の葉に置く露虫の音と共に漸くしげし。銀座人形町上野広小路浅草蔵前あたり市中繁華の大通夜店にぎやかに晩涼の人絡?たり。(?は糸片に澤のつくり-タクとよむのであろうが、この字ガラケイになし)
萩、桔梗、女郎花[おみなえし]、秋海?、月見草、芙蓉、木槿[むくげ]、紫微[さるすべり]のたぐい花皆開く。木犀茉莉花[まつりか]馥郁たり。蝉声終日やまず秋に入るや蜩夕陽に叫び蜻[セイ]テイ[難漢字]水田に飛び稲花晩風に匂う。この月半頃より彼岸にかけて鱚[きす]沙魚[はぜ]を釣るの好時節。なた豆新芋枝豆味うべく瓜熟してますます甘し初鮭北国より来る。