1/2「フェアプイーか無私か - 山折哲雄」中央公論新社刊 こころの作法 から

 
1/2「フェアプイーか無私か - 山折哲雄中央公論新社刊 こころの作法 から
 

「語り」ということでいえば、講談調の語りとか浪曲調の語りというのがあった。それが学校の教室などでも結構活用されていた。しかし戦後になって、これらの語り物はさきにふれた新時代の視聴覚教育の流行に押されてしだいに衰退していった。いや、衰退どころか、軽蔑され忌避されていった。それにともなって、教師の側における語りの能力、生徒にむかって語りかける情熱も衰えていった。散文的な解説や分析だけが目立つようになったのではないだろうか。
かつての講談調の語りや浪曲調の語りのなかには、よく知られた歴史的な事件や人情話が満載されている。それらの語りを息をのんできいているうちに、自然に歴史のひとこまを覚えたり、人情の機微に目を開かれたりしたのである。そしてそういう語りを身につけている教師に生徒たちは拍手喝采を送っていた。たとえば堀部安兵衛が登場する「高田の馬場」の仇討、あるいは不義密通のはてに自殺してしまう「樽屋おせん」の話などである。そのような語り物のなかで人気があったのが、宮本武蔵千葉周作のような剣の達人の話ではなかっただろうか。
それらの昔語りの定番を、私は今日の時代の趣向に合わせて、学生たちの前で語ってきかせるときがある。たとえば剣の道はフェアプレイか無私か、といったテーマを掲げて - 。



斎藤茂吉はどうも、宮本武蔵が好きではなかったらしい。それというのも、武蔵は武士の風上にもおけぬ卑怯者だといっているからだ。
茂吉は昭和五(一九三〇)年に「巌流島」というエッセーを書いているが、そのなかで独特の宮本武蔵論を展開している。私は、はじめてその文章にふれたときの驚きを忘れることができない。面白い議論といえばいえるが、それにしても茂吉は本気でそう思っているのだろうか、という疑念がわきおこってきたのである。
慶長十七(一六一二)年のことだった。下関から目と鼻の先の海上にある巌流島で、佐々木小次郎巌流という剣客が宮本武蔵と闘い、敗れてこの島で殺された。つばめ返しの小次郎と二刀流の武蔵の決闘だった。
勝負の日、両名は辰の上刻(午前七時)までに島に到着する約束になっていた。しかし武蔵はわざと三時間も遅れてやってきた。時間通りにきていた小次郎はいただち怒り狂ったが、武蔵はそれに冷笑をあびせたまま闘いにのぞんだ。剣を抜いて襲いかかってくる小次郎に武蔵は重い木刀で立ちむかい、ついにその頭蓋を打ちくだいた。小次郎は武蔵の術中に陥ったまま、勝機を逸したのである。
斎藤茂吉は、そうしたやり方で勝った武蔵を卑怯者とののしった。かれは自分の足で巌流島を訪れ、現場を見てそういっている。三時間も故意に敵をいらいらさせた武蔵を憎悪し、むしろ小次郎に同情するとさえいっている。一方の小次郎が剣で闘おうとしたのにたいし、武蔵が断りも通知もせずに木刀を使っているのも、あざとい仕業で面白くない。武蔵は六十度も真剣勝負をしているため、その勝負の骨(こつ)をのみこみすぎていて、それも面白くないといいつのっている。思いこんだら一歩も退かぬ、いかにも茂吉らしい憤懣の爆発である。
いわれてみて、私はなるほどと思った。茂吉の腹立ちも同情できる。武蔵をさむらいの風上にもおけぬ奴、といって怒るのにも一理あるのではないか。ところが、当時この茂吉の文章を読んだ菊池寛が、すぐさま反論の筆をとった。 - いくら茂吉がそんなことをいっても、あの時代ではやはり武蔵が一番強い。いきおい尊敬せざろうえないのではないか、と。
茂吉が猛然と反撃したことはいくまでもない。ふたたび「巌流島後記」なる小文を書いて応じたのである。小説家の菊池氏ともあろうものがその程度のことでは、人間にたいする観照がいかにも浅いではないかと諫めて、つぎのようにいっている。 - 武蔵が強く巌流が弱かったという結論には、自分も異存はない。しかしかれらの決闘はそもそも技を較べるところにあったのだから、それは一種のスポーツだと解釈していい。とすれば当然、その闘いにはスポーツ精神が要求される。スポーツ的規律、スポーツ的約束にしたがわなければならない。そのスポーツ精神が武蔵によって裏切られたのである。とうてい許すわけにはいかないのではないか。
フェアプレーの精神である。たとえば、アメリカの西部劇映画などによくでてくる決闘の場面がよみがえる。二人の荒くれ男が、一定の距離をおいて拳銃を撃ち合う。銃声が宙空の奥に吸いこまれていったあと、一方が倒れ一方が勝利の笑みえを浮かべて立っている。男が二人、命をかけて技を競う。であれば、決闘の舞台はフェアな形に整えられていなければならない。奇襲作戦、からめて攻撃などはもっての外、という思想である。ひょっとすると茂吉は、ハリウッド型西部劇のファンであったのかもしれない。