「焼き鳥の串の業績を讃える - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

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?「焼き鳥の串の業績を讃える - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から


串はエライ。
このことに人々は少しも気づいていない。これまで果たしてきた串の業績にフト気づいて以来、ぼくは串が不憫でならない。だれも串をきちんと評価してやらないからである。
ナントカ横丁、カントカ小路と称する通りには、必ず一軒は焼き鳥屋がある。
おでん屋、ラーメン屋、一杯飲み屋と並んで、焼き鳥屋は必ずある。
一杯飲み屋のメニューにも、焼き鳥は必ず載っている。
一杯飲み屋に入った客は、ます、ビールあるいは酒を注文し、とりあえず焼き鳥を注文する。
焼き鳥は、一杯飲み屋のメニューの主(ぬし)なのだ。栄光の、注文ランク第一位なのである。
焼き鳥は、どのようにして、今日のこの栄光を勝ち得たのであろうか。
焼き鳥の栄光に、串はどのように寄与 してきたのであろうか。
夕方、フラリと行きつけの焼き鳥の前を通った。行きつけといっても、四、五回通っただけの店である。
店の戸が開いたので、フト立ち止まった。立ち止まったとたん、「焼き鳥三本にビール一本。所要時間十五分」というプランが頭にひらめいた。
この店は、カウンターに八席、テーブルが二つという小さな店である。
一番奥のテーブルで、店主、おかみさん、二十一、二歳の息子、店主の母親らしいおばあさんの四人が、鳥に串を刺す作業に専念していた。
この店の焼き鳥は、本物の鳥である。
まだ開店前らしかったが、店主は「どうぞ」と招き入れてくれた。
ビールとつき出しが出る。つき出しは鳥皮を甘辛く炒りつけたものだ。
店主はテーブルに戻り、また串 を刺す作業にとりかかる。
テーブルの上には、鳥のモツが山と積んである。ネギの山も、そのかたわらにある。
一家は押し黙って串を取りあげ、鳥を串に刺し、次にネギを刺し、また鳥を刺し。刺し終えたものを横に並べ、また串を取りあげて鳥を刺しネギを刺す。
会話が飛び交うわけでもなく、むろん団欒ではない。
焼き鳥屋の主たる業務は、むろん焼くこともそうだが、この仕込みの串刺しにあるのではないだろうか。
その光景は、この一家の暮らしの成り立ちのありようを、実にわかりやすく説明していた。
このようにして、この一家は生計を営んでいるのだ。
それを見ているうちに、なにか懐かしいものがこみあげてきた。
昔は各家族でも、こうした光景がよく見られたように思う。母親と子供たちが、テーブルを囲んでインゲンのスジ取りなどをしていたものだった。
開店前の薄暗い焼き鳥屋の片隅で、懐かしい、“ゲマインシャフト”が展開されているのだった。
そのうち、この店の子供らしい中学生の男の子が学校から帰ってきた。
「ただいま」でもなければ「お帰り」でもないが、お互いの一瞬の目くばせが、双方に十分な理解をもたらしたもののようであった。
中学生は、有名私立中の制服を着ている。
そういっては失礼だが、「ホー!」という思いがした。
一区切りついたらしく、店主が立ちあがって焼き鳥を焼き始めた。
やがて三本の焼き鳥が、ぼくの目の前に置かれた。
塩味のよくきいた焼き鳥を噛みしめながら、また一家の作業を見るともなく見ているう ちに、ぼくは大変な発見をしてしまったのである。
いまみんなが刺している鳥肉の山は、すでに食べられる大きさに切ってある。
このまま、串に刺さないで焼いても、焼き鳥は焼き鳥である。
焼き鳥というものは、鳥肉の小片を、タレもしくは塩で焼いたものである。
このまま、例えばアミの細かい焼き網かなんかで焼いて、バラバラのまま皿に盛って出しても焼き鳥の名をかぶせることができる。
客は鳥肉を箸でつまんで口に入れ、次にネギをつまんで口に入れるということになる。
むろん、それでもいいはずだ。
なぜ、わざわざ串に刺すのだろうか。
なぜ、「主たる業務」として、一家総がかりで串に刺さなければならないのだろう。
ぼくは改めて、目の前の三本の焼き鳥を、全部串か らはずしつ皿に並べてみた。
すると、とたんに、それまで堂々三本の威容を誇っていた焼き鳥は、なんともつまらぬ、平べったくだらしない食べ物に変貌してしまったのである。鳥、ネギ、鳥と、順序正しく並べられたまん中を貫く一本の串、これが焼き鳥全体に秩序と威厳を与えていたのだ、全体をキリリと引きしめていたのだ。
皿の上のバラバラの肉片とネギを、箸でつまんで食べてみたが面白くもなんともない。
焼き鳥は、箸を使わないで食べる。
串を右手に持って、先端の肉を、まず上下の歯ではさむ。
はさんだのち、右手を横に引いてズリズリと肉片を串からはずす。
ここに一種の遊技性と野性味がある。
これも焼き鳥の魅力の一つである。
もし焼き鳥が、串に刺さないで、バラバ ラのまま食べるという様式の歴史をたどってきたならば、今日の栄光はなかったに違いない。
串に刺す、という一点で、焼き鳥は今日の栄光を勝ち取ったのである。
そうなのだ。実にそうなのだ。
ぼくは大変な発見に興奮して、カウンターを思わずドンとたたいてしまった。
店の人たちは、「どうもなんだか早目に酔っぱらってしまったアブナイ客」という目でぼくのほうをチラと見、警戒の目くばせをすると、また串刺しの作業に専念するのであった。
そうなのだ。串はエライ奴なのだ。
串がこの一家の生計を支えているのだ。串が子供の学費をも生みだしているのだ。
串一族には、焼き鳥屋のように、客の前に登場しない串もいる。
鰻のかば焼きの串がそうだ。
かば焼きは、裂き三年、 串八年、焼き一生といわれている。串はその焼きの期間を陰で忠実に支えているが、客の前には姿を現さない。謹み深く謙譲の精神にあふれた性格の持ち主なのである。
そういうところにも、改めてエライと申しあげておきたい。