1/2「ロミオの「インクと紙」-まえがきに代えて - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

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1/2「ロミオの「インクと紙」-まえがきに代えて - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

ある時ふっと疑問が湧く。
だがそれはほんの些細なもので、すぐさま明らかにしなくても命に別状はないどころか日々の生活にも支障はない。誰かに訊いたり、調べたりするほどのことでもないので、「どうしてかなあ」という頭の中のつぶやきの語尾が薄れるにまかせ、ほうっておく。何かの折にまた同じ疑問が浮かんでくるが、事情に変わりはないのでまたもやそのままになる。
というような小さな疑問の二つや三つ、誰の記憶の片隅にもほこりをかぶって転がっているのではのではないだろうか。かぶったほこりが払われることもなくン十年、やがて肉体とともに火葬場で焼かれて消えてしまうのがほとんどだろう。
ロミオとジュリエット』を初めて読んだのは、大学の四年生の時だったと思う。アメリカ人のC教授のシェイクスピア講義で、『ロミオとジュリエット』『トロイラスとクレシダ』『アントニークレオパトラ』というカップル名をタイトルとした三作品を取り上げ、一年間かけて少年少女から中年男女までの三つの恋愛を考察する、という講義だった。従って、『ロミオとジュリエット』は新学期早々に読み出したはずだ。
悲恋の原型たるこの芝居のあらすじはどなたもご存じだろうから端折るとして、問題は「インクと紙」である。
ティボルトを殺したロミオがヴェローナからマンチェア(マントヴァ)へ追放されたあと、ジュリエットは窮地に陥る。父キャピュレットの独断でパリス伯爵と結婚せねばならなくなるからだ。そこで彼女はロレンス神父のところへ相談に行き、四十二時間仮死状態になる薬をもらい、結婚式の前夜それを飲む。
目覚めにロミオが立会い、二人してマンチュアに逃げるという計画その他、事情を説明したロレンス神父の手紙は不運ないきさつでロミオには届かず、従者バルサザーがジュリエットの「急死」をロミオに伝える。絶望したロミオは、バルサザーに向かって言う。
「俺の宿は知っているな、インクと紙を取ってこい/それから早馬を雇ってくれ。今夜発つ」(第五幕第一場)
この「早馬」は分かる。ジュリエットのかたわらで自殺しようと決意したロミオは、馬を駆ってヴェローナへと急ぐのだ。だが「インクと紙」は?いったい何に使うつもろなの?もちろん何かを書くつもりで取ってこさせるのだろうが、何を?
初めて『ロミオとジュリエット』を読んだ時にそんな疑問が湧いた。ところがこの疑問、解明しなくてはプロットが分からなくなるとか、ロミオの行動が掴めないというほどのものではない。講義中に手を挙げて質問するにはあまりにも........というより、講義が終わる前にそんな疑問が湧いたことすら忘れている。その後、この芝居を舞台で見たり、読み直したりするたびに同じ疑問が湧いては消え、蘇っては消えを繰り返して、とうとう翻訳する日が来てしまった。一九九四年、東京グローブ座での上演台本として。
それは、おのれのホンの読み方の大雑把さと記憶力のお粗末さを思い知ることでもあった。シェイクスピアは「インクと紙」のこともちゃんとフォローしていたのだ。父モンタギュー宛の手紙を書くのである。ただし分かるのは五幕第三場(劇の最終場面)
ロミオはキャピュレット家の霊廟に入る前にバルサザーに言う、「その鶴嘴(つるはし)とかな梃子(てこ)をよこせ。待て、この手紙を。明日の朝早く/必ず父上に届けてくれ」と
いささか言い訳めくが、この手紙が、第一場の「インク」によって「紙」に書かれたものだとすぐさま観客は思い出すだろうか。すくなくとも私は、訳していても思い至らなかった。「あ、そうか.....」と分かってきたのは、この場の最後、ヴェローナ大公が関係者の事情を聞いて事を収めるくだりである。ロミオが父宛に書いた手紙をバルサザーから渡された大公は言う、「この手紙は神父の言葉を裏書している。/二人の恋の進みゆき、ジュリエットの死の知らせ、/
それから、貧しい薬屋から毒薬を買ったことも/書いてある」と。
ここではっきり「あ、そうか、あれでこれを書いたのか」思いはしたものの、同時に、第五幕第一場の「インクと紙」という「素材」と最後に語られるその結果は、結びつけるには遠すぎるという気もしたものだ。
ちなみに東京グローブ座で『ロミオとジュリエット』を演出したオックスフォード・ステージ・カンパニーのジョン・レタラックは、ここの大公の台詞を大幅にカットした。いま引用した部分もカット。この芝居を上演する際、「インクと紙」のその後を尻切れトンボにしたままのこういうカットはかなり多いのかもしれない。だとすれば、そして、芝居を見ただけで戯曲を読まずにいれば、冒頭で述べたような疑問が湧いてきても無理はないのでは.....。とまあ、これも言い訳だけれど。