「ひとりでお酒を飲む理由(抜書)-山崎ナオコーラ」ちくま文庫 泥酔懺悔 から

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「ひとりでお酒を飲む理由(抜書)-山崎ナオコーラちくま文庫 泥酔懺悔 から

私は三年前に三十歳を超えたのだが、その辺りから、「私はこのままずっと、ひとりで生きていくのかもしれない」と思うようになった。もちろん、仕事仲間や友人たちの世話になっているし、商店街の店員たちや鉄道会社の社員たちに助けられながら、生活をしたり出かけたりしているので、まったくの孤独ではない。ただ、いわゆる「結婚」や「出産」とは縁がないかもしれない、というのを感じるようになったわけだ。私は人間的魅力を備えておらず、また、人と関わるのが得意ではない。
元来、私は気が弱い。人見知りでもある。変わったペンネームで仕事をしているせいで豪快なキャラクターを想像されることが多いのだが、実際は風貌性格共に地味である。小学生の頃はクラスで一番大人しく、教室ではまったく喋らなかった。勉強はできたので学校が苦痛ということはなかったが、人と交わりたいという欲求が薄かった。頭の中で空想したり、読書をしたりできれば十分だったので、このままずっと、こういう風に過ごせていけたら嬉しいのに、と思っていた。社会生活が営めるとは到底思えなかったので、大人になるのが怖かった。そして中学生になって、ホーキング博士に傾倒し、宇宙のことばかり考えていたら、頭が爆発した。小学校三年生から通っていた学習塾を、中学二年生でやめてしまい、そこからは成績が落ちた。高校は第三志望、大学は第七志望に進んだ。読書は好きだったので、大学四年生のときに小説を書いてみた。その後も、会社勤めをしながら書き続け、二十六歳で作家になった。
そのときは、これで本の世界のことだけを考えていれば済むのだ、と、ほっとした。だが、実際には、作家の仕事も人間関係なくしてはできないことだった。編集者との打ち合わせをしなくてはならないし、作品発表後は会ったこともない人たちからあれこれ言われるのに耐えなくてはならない。理不尽なバッシングや中傷もあり、意に反して若い頃よりもさらに人と交わらなくてはならなかった。苦しい生活が始まった。
私は疑心暗鬼になり、編集者も友人も皆が陰で私の悪口を言っているのではないか、と考えるようになった。なかなか本音を伝えることができないし、新しい人と打ち解けようという気持ちになれない。他人が怖かった。
そういうわけで、結婚や出産は到底できない、と考えるようになったのである。
ちょうどその頃、世間で「婚活」「アラサー」という言葉が流行り始めた。私が子どもだった頃はむしろ、「結婚しないで生きていく女」の方がかっこ良いように、テレビや雑誌でいわれていたように記憶している。しかし、長びく不況の中、人々は連帯を望むように変化したらしい。「三十歳前後の人は、結婚活動に勤しんで、将来に備えるべき」という考えが主流になった。自分にはできないように感じられたが、皆が結婚していく中、努力をしなくても良いのだろうか、そういう疑問が湧いた。
そんなある日、友人が、公務員の男性を紹介してくれた。友人カップルと、四人で食事をした。紹介された人は、世間で言うところの良い大学の出身で、性質は優しそうだった。次は二人で会うことになり、再び出かけた。その人は、高い和食をごちそうしてくれ、仕事の話や、結婚の話をしてくれた。競争が苦手なので公務員を選んだこと、仕事自体はあまり楽しくないが収入があるので今は趣味に頑張っていること、親が心配するので結婚を考えるようになったこと、私はそういう話を聞くうちに無口になってしまった。会話はまったく弾まないまま、しゃれたバーに移動すると、その人はドアを開けてくれた。私はカクテルの名前をまったく知らなかった。そこで「弱めのものを」と頼んだ。気詰まりなまま空気の一杯だけ飲んで、その人と別れた。そして電車に乗った。
私は競争しながら仕事をするし、親は安心させなくていい。そういう気持ちが強く萌してきた。私は、友だちや紹介された人とは、人生に対する考えが違うのかもしれない。
結婚しなくていい。
金は自分で稼ぐし、自分の食事や飲み代は自分で払いたい。
旅行は自分で手配したいし、バーのドアは自分で開けたい。
連帯を賛美する風潮の中、世間と逆行する行き方になっても構わない。
それが自分なのだ。自己認識を改めた。電車を降り、自分の住んでいる街を歩いた。そのときふと、「私はまだ飲める」と感じた。私の体にはもともと、アルコール耐性がある。ひとりで飲んでみようか、と閃いた。それまで、私は外へ出て、ひとりで酒を飲んだことがなかった。ひとり暮らしを始めた頃に部屋で缶ビールを開けたことならあるが、なんだか侘しい気持ちになり、それに仕事の邪魔にもなるので、冷蔵庫に酒は入れないことに決めた。酒を飲む、ということになんとなく罪悪感を持っていたし、堕落するのが怖いのでできるだけ酒とは距離を置きたいとも思っていた。だが、たまに、日常から脱出したくなることがあり、アルコールを欲してしまう。それを、かならずしも我慢しなくても良いのではないか、と急に思った。友人や恋人がいなくても、飲んでもいいのではないか。今、飲みたい理由は、寂しさではなく、自立への欲望からだった。今日は、飲んでもいいような気がする。
これまで何度も通り過ぎながらも、開けたことなかったドアの前に、私は立った。入る勇気がなかなか出ず、しばらく逡巡した。それから意を決し、ドアを押した。想像していたよりも、ずっとドアは重かった。
いわゆるオーセンティックバーには、メニューがない。
私はそれを知らなかった。そこで、席に着いたあと、しばらく待っていた。
「ここはメニューを置いていないんですが、どのようなものがお好みですか」
バーテンダーは優しく尋ねてくれた。髪の毛はしっかりと固めてあり、蝶ネクタイはぴんと張っている。
「では、辛めのものをお願いします」
私はなんとか体裁を作って、低めの声でそう伝えた。
「かしこまりました」
バーテンダーはシェイカーを振り、足つきのグラスに透明の液体を注ぎ、足に指を添えて、すっと私の前に滑らせた。
それがものすごく嬉しかったのである。自分でドアを押せたということ、自分で注文ができたこと、自分で会計を済ませられたこと。腹の底からふつふつと喜びが湧いてきた。初めてひとりで海外旅行したときの気分に似ていた。