「住について 池波正太郎」新潮文庫 日曜日の万年筆 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200603082040j:plain


「住について 池波正太郎新潮文庫 日曜日の万年筆 から

いわゆる〔高度成長〕とやらがはじまって、テレビが普及して......そのころから、東京の銭湯と映画館が減りはじめた。
したがって、浴室がついていない安いアパートへはいっても、近くに銭湯がなければ電車に乗って躰[からだ]を洗いに行かねばならぬていう、むかしの東京を知っているものにとっては、実に、ばかばかしいことになった。そうなれば当然、浴室つきのマンションになる。家賃は高い。どうせ高いのなら、ローンで金を借りて買ってしまおうということになってくる。
いまや男たちは、ローンの返済と妻子を養うために、自分の小遣いさえも持てなくなってしまった。だれもが住む家のために苦しみ、喘[あえ]いでいる。
人間の住居というものは、人の生活へ大きな影響をもたらす。住居は人の心を変えてしまうことだってある。
私の家は約三十年前に、三十坪に足らぬ敷地を借り、すべてで二十万円ほどかけて小さな家を建てた。いまも、そこに住んでいるが、この三十年間に四度、改築をしている。
四度目の改築は十年前で、このときは郊外に移り、少しは庭のある土地に家を建てたいとおもったが、家族(老母と家人)が現住所を離れたがらなかったので、仕方もなく、鉄筋コンクリート三階の家に改築することにした。
三階といっても屋根裏を少しひろげたようなもので、そこが私の書庫である。
設計したのは辰野清隆で、この人がつくった住宅を婦人雑誌で見て、
(この人なら大丈夫だ)
と直感し、お願いすることにしたのだった。
家族三人が一つずつ自分の部屋をもち、それに応接間、書庫、浴室、台所だけの小さな家に変りはない。
このとき、私が設計家に注文をしたのは、
「すべての戸を引き戸にすること」
であった。
外国ふうのドアは、せまい日本の、せまい民家には不適当である。スペースを余分にとられるし、むりにもドアにすると、ドアの開け閉めに不自由をきわめる。
むかしの日本の建築の戸が、ほとんど引き戸なのは、たとえ大きな建物であっても、ドアの数倍も便利だからなのだ。そうした賢明な伝統があるのに、近年は何処へ行ってもドアの氾濫となってしまった。
私の家では、部屋によっては二重三重の引き戸になっている。たしかに工事は面倒だが、出来あがって使ってみると、これほど便利なものはない。
私が引き戸に固執したのは、むかしの、たとえば花柳界の家々や、料亭などの建築を見知っていて、いわゆる〔待合建築〕などといわれた特殊な工法をわきまえていたからだろう。
わずか畳一枚のスペースに浴室などをつくってしまう大工の腕の冴えに、瞠目[どうもく]したものだった。
私は設計家を信頼しきっていたので、工事中は一度も見に行かず、完成したら、果して、おもいどおりの家ができていた。設計図を見れば、その完成した姿が寸分の狂いもなくわかるのは、長年にわたって芝居の仕事をしていて、舞台装置の設計図と、出来あがった舞台面とを何度も見つづけていた所為[せい]かも知れない。
私が家族の意見をいれ、せまい土地に踏みとどまったのは、近辺の住人と家族との交際に三十年にわたる親しみがあった事と、その三十年間に私も家族も飼い猫も、まことに健康にめぐまれていた事、この二つをよくよく考えたからだ。
私はさておき、年とった老母や家人が別の土地に移り、近所の人びとと新しいつきあいをはじめなくてはならぬことを考えると、やはり移転には踏み切れなかった。
また、移転は迂闊にできない。
改築の折、半年間、他の土地へ仮住居をしたが、私も家族も飼い猫も体調をくずし、猫の一匹は病死してしまった。
年寄りくさいといわれるかも知れぬが、住みなれた土地をはなれることは、若いうちならよいが、四十をこえた人間には重大な意味をもつ。
移転してよい結果になることも、むろん、あるのだ。
そうした、さまざまの例を、私は数え切れぬほど知っている。
私の場合は、戦後の三十余年間に、知らず知らず、せまいながらも我家をもてたが、いまは、大変なことになった。
むかしの東京人[びと]のように、
「住む家は借家で充分......」
などと、いってはいられない。
家賃が月給の半分近くかかるとなっては、やはり、ローンにして自分の家をもちたくなるにちがいない。
戦後、私が、はじめて借りた一間きりの新築バラックの長屋は家賃が千五百円で月給の五分の一だった。
どうして、それが、いまのようになったのか、理由は複雑をきわめている。
だが、ドアと引き戸のちがいを、大半の日本人が忘れてしまったことにも、大きな原因があったろう。
ドアと引き戸、大と小、日本と外国の風土のちがい......そうしたものの感覚を、だれもが忘れてしまった。
いまは家が人を......人の心を喰い荒している。
家のために、はたらきざかりの男の小遣が消えた。
小遣といっても、毎日の昼食とタバコをまかなうだけのものでは小遣といえぬ。小遣の余裕[ゆとり]がなくなったのだ。
男の小遣に余裕がなくなれば当然、その国の余裕も消える。
また、むかしのはなしになるが、むかしの男たちは、どんなに貧乏をしていても小遣に余裕があった。
これは、たしかなことだ。
その余裕が、世の中にうるおいをあたえていたのである。
うるおいといっても、酒や遊びのためばかりではない。それよりも、もっと重い意義を内蔵したうるおいのことだ。
そのうるおいが消えると同時に、人びとは、自分の心を他人へつたえる術[すべ]をも失いかけてきた。