「[手記]夫・山田風太郎の臨終まで - 山田啓子」

 

「[手記]夫・山田風太郎の臨終まで - 山田啓子」

もともと体が丈夫ではなかったこともあって、四十代、五十代の時から「僕はあともう五年の命」というのが主人の口癖でした。推理作家の土屋隆夫さんの勧めで建てた山荘が蓼科にあるんですが、「冬の一番寒い時に蓼科に行って、近くの八子ヶ峰に一升瓶を持って登り、酒を飲みながら眠るように自然に死にたいものだ」とよく言っていたものです。私は「寒くて帰ってくるんじゃないの」と冷やかしてましたけども。
ある時、急に「葬式も要らないし、坊主も要らないけど、墓だけはないとお前たちも困るだろう。もうそろそろ死期が近い気がするので、墓を買っておこう」と言い出した。もう二十年も前の話です。
ドライブがてら八王子の上川霊園というところを見に行き、南アルプスまで見渡せる眺めが一目で気に入った。後で知ったんでずが、同じところに、菊田一夫さんや金子光晴さんのお墓もあります。
向井去来という江戸時代の俳人がいます。京都にあるその人のお墓は、何の変哲もない石に「去来」と刻んであるだけ。「僕が死んだら、あんな自然石のただ丸いゴロッとしたやつを墓石にしてくれ」と言われていました。
それが山田の、唯一の遺言めいた言葉でした。
戒名も自分で、「風々院風々風々居士」と付けていたんですが、いつのまにか短くなって、最後は「風ノ墓」でいい、と言う。風太郎のペンネームは、郷里・但馬豊岡(兵庫県)の旧制中学時代のあだ名から来ています。その豊岡中学時代、山田に習字を教えた先生の息子さんが、やっぱり書道の塾を開いているそうで、その方に、「風ノ墓」の墓碑銘を書いて貰うことにしたんですよ。
数日前、石屋さんが墓石の写真を送って来ました。最近は、墓石といえば御影石を四角く加工したものばかりで、自然石はかえって見つけにくいようなんです。石屋さんが見つけてくれた岡山産の石は、ちょうど人間が横になったような恰好をしている。なんだかこの家の居間で、いつもテレビを見るでもなく寝そべっていたあの人の姿を思い出しました。

 

「僕の小説は読まなくていい」
実を言うと私、山田の小説って全然よんだことがないんです。本人も結婚当初から「僕の小説は読まなくていい」と言うし、歴史の話でとても長いものばかりだから。これから時間ができるので、少しずつ読んでいこうかな、と思っているんです。
ここ十年ぐらい、古今東西の人物の死に方を記した『人間臨終図巻』や、朝日新聞に連載したエッセイ『あと千回の晩飯』で、“忍法帖”の頃とはまた違った形で多くの方に読んで頂いたり、たくさん取材の方が見えたりしました。有り難いことだと思いますが、当の本人は「なんでこんなものを面白がるのかね。不思議だね」と首をひねるばかり。
私自身も、「作家・山田風太郎」がどんな人だったか、と聞かれても、よく分からないんです。私や子供たちの前では、仕事の話はまったくしない人でしたから。
よく作家の方は、気難しいといいますね。でも、あの人の場合は、書いている時も、そうでない時も、まったく気分が変わらないんです。もっとも仕事をするのは夜中ですから、こっちは寝ていて、気がつかなかっただけかも知れませんが。そういえば、こんなことがありました。
忍術のアイディアを考える上で、人間の体積がどれくらいあるかを知る必要が生じた。それで夜中に風呂場に入り、一杯にお湯を張った風呂桶に頭まで沈めて、こぼれた分のお湯の量から計算することを思い立った。異様な物音がするので遊びに来ていた高校生の姪が起き出し、「何をしているの?」と聞いたら、山田は「いや、僕の体積を量ろうと思って」と真面目な顔で答える。姪は、大笑いしたものです。
そんな呑気な調子だから、よかったのかも知れません。結婚してから四十八年、いちども夫婦喧嘩をした覚えがないんです。もちろん私としては怒らせないように努力はしたつもりですが、向こうに言わせれば、ケンカをするのも面倒くさかっただけかもわかりません。
結婚のきっかけですか?恋愛でもなく、かといって見合いというわけでもない。あえて言えば、「自然結婚」かしら‥‥‥。あの人にはじめて会ったのは、敗戦直前、昭和二十年五月のこと。私はまだ十三歳でした。 
山田は東京医科大に在学中、二十五歳の時に「宝石」の懸賞小説に入選して作家としてデビューしますが、それより以前の戦争中は、沖電気に勤めていたことがあるんです。その時の上司が、私の母の再婚相手、つまり私の義父にあたる。それで、結婚するずっと前から顔見知りだったんです。
とはいえ相手は十歳も年上ですからね。「知り合いのお兄ちゃん」というぐらいで、まさかその人と結婚するとは思ってもみませんでした。
初対面から七年後、私が女学校を卒業する頃になり、義父と母から、「実は、山田君がお前のことを気に入っている」と言われた。それまで何の前触れもなかったから、びっくりしましたよ。まだ二十歳でしたし、「結婚なんて早すぎる」と最初は返事を渋ったら、山田から山形・鶴岡の女学校に通っていた私のところへ手紙が来た。「安心して上京するように」ってたったそれだけ。プロポーズの言葉なんて何もありませんでしたが、私も結局、「親が決めた相手だから、結婚しなくちゃいけないのかな」と。昭和二十八年の四月に女学校を卒業して、六月にはもう結婚していました。
新居は、三軒茶屋の近くの借家。六畳に四畳半と三畳分の玄関でしたかしら。主人は一日中家で仕事をしていますから、「狭い家に二人で顔を突き合わせてばかりじゃ、気詰まりだろう」と、翌年長女が生まれるまで、一年ばかり渋谷の田村魚菜さんの料理学校に送りだしてくれた。
あの人は、外食嫌いで、晩ご飯は必ず家で食べる。酒の肴になるものが好物で、一度、とろけるチーズを牛肉で巻いて焼いたものを出したら、やたら気に入り、「チーズの肉トロ」と名付けて、二十年も飽きもせずそればかり食べていましたね。それと、戦争中ひもじい思いをしたからでしょうか、少食の癖に食卓に四品、五品とおかずが並んでないと気が済まない。それを眺めながら、「一時間も並んでようやく雑炊にありついたが、お湯のように薄くて、夕食のはしごをしなけりゃ持たなかった」とか「ストーブが焚けず、シャツと上着の間に新聞紙を入れて寒さをしのいだものだ」なんて、戦争中の思い出話をよくしました。
山田の生活パターンは、昔から一緒。お酒を飲みながら、一時間半ぐらいかけて晩御飯を食べ、その後すぐ寝てしまう。夜中十二時頃に起きだして、朝まで仕事をする。そしてまた眠り、昼頃起きる。要するに、「一日をを二回に分けて」生活していたわけです。
元気な頃は朝もお酒を飲んでいたぐらいで、三日でウィスキーボトル一本を空けるペースでしょうか。煙草も一日に、二、三箱、五十年以上吸い続けた。「よく肺がんにならなかったものです」と、お医者さんも不思議がっていましたね。
でも本人は、「飲みたいから飲むし、吸いたいから吸う。酒、煙草をやめてまで長生きしようとは思わない」と、気にかける風はない。徹底したマイペース人間で、「やりたくないことは、やらないの」が口癖ですから、長生きしたのかもしれませんね。

 

「何もしないのが、一番好き」
三十年以上前に、運転免許を取ろうと私と一緒に教習所に通い始めたんですが、教官にいろいろ指図されるのが嫌さに、一日でやめてしまった。それ以来、輪をかけて出無精になった。
身のまわりのことにはまるで無頓着。家にいても自分でできるのは電灯とテレビのつけ消しぐらい。およそ機械と名のつくものが大の苦手で、自動販売機でジュースを買うことすらできないんです。
一緒に出かけても、自分では切符も買えないし、だいたい財布さえ持ち歩かないんですから。ある時、新宿駅ではぐれて往生したことがありました。帰りの電車賃も持っていないし、たとえ帰ったとしても家の鍵を持っていないのだから、と心配して一時間近く捜し回り、ようやく改札口の向こう側に呆然と立っているのを見つけたんです。それからは、やっと電車賃ぐらい持ってくれるようになりましたけど(笑)。
結婚してから銀行には一度も行ったことがないほどで、お金の出入りにもまったく疎い。もっとも独身時代は、原稿料が振り込まれてもすぐに全額引き出して使ってしまうので、「せめて二、三日は置いておいたらどうですか」と銀行の人に忠告された、と言っていましたから、その頃は自分で銀行に行ったこともあるんですかね。
結婚して四年後、長男が生まれた昭和三十二年に大泉(練馬区)にはじめて家を買いました。もうそれなりに本を出していた時期だと思いますが、なぜか貯金は全然なくて、出版社に前借りをして買ったんです。
この多摩の家に移ったのは昭和四十一年のことです。ある日、新聞の折り込みチラシが入っているのを見つけ、現地を見てすぐに決めてしまった。まだ住宅地の造成がはじまったばかりで、四百坪の土地がポッカリ空いていたんです。
生まれ育った但馬の家のような、昔風の広い家に住みたいという理想があったのでしょう。「子供の頃は、ナツメの木の下で実をもいで食べながら、『少年倶楽部』に読みふけったものだ」と、この家の庭にもナツメの木を植えたんです。実際に実がなって食べてみたら、「まずくて食べられたもんじゃない。なんでこんなもの植えたんだろう」と苦笑していましたが。
桜、花ミズキ、ノウゼンカズラ、沙羅、藤‥‥‥あの人は花の咲く木が好きで、この家の庭にあるのもみんなそうです。仕事の合間にそれをじ-っと眺めていました。「僕はこうして何もしないでいるのが、一番好き」って。
山田は五歳で父を亡くし、母と再婚した伯父に育てられます。そんな生い立ちのせいか故郷に馴染まず、二十歳で飛び出して以降、但馬に帰ったことは三回しかない。でも心のどこかでは、生地の野山の光景を懐かしく思っていたのかも知れません。
娘と息子、二人の子供たちに対しては、「僕は父親を知らないから、父親としてどう接していいのかわからない」と言って、叱り役をみんな私に押しつけた。「こういう生き方をしろ」という説教も一切しませんでした。子供たちも、作家という父親の職業を意識することはなく、私と同じで、小説はあまり読んでいない。仕事もまったく別の道を選んだんです。五人の孫たちにはもっと甘くて、ある時お小遣いを一人十万円あげたいというからビックリしてやめさせたことがありましたね。
子供たちも独立し、ここ二十年は夫婦二人きりの生活でした。でも不思議と寂しいと思ったことはありません。

 

「死ぬ事が人間最大の滑稽事」
あれはちょうど十年前のことでした。旧制中学の頃の同級生が何人か家に遊びに来て、みなさんが帰った後も、山田は一人で座敷に座ってお酒を飲んでいた。台所で私が片付けものをしていたら、ドシンと大きな音がする。あわてて見に行くと、主人が廊下に倒れたままピクリとも動かない。周りには折れた歯が散乱し、血が飛んでいる。
もう真っ青になって、「お父さん、お父さん」と揺さぶったら、ようやく返ってきた返事が、「僕、死んだ‥‥‥」。
部屋と廊下の間の段差につまずいただけだったんですが、本人は翌日そのことを全然覚えていない。本人は、「あの時俺は山田風太郎Aから山田風太郎Bに入れ代わったんだ」なんて面白がっていましたが、今思えば、パーキンソン病の症状が出る前触れだったのかも知れません。原因も治療法もよく分からない病気なんですが、筋肉の硬直や歩行困難がだんだん進んでゆく。山田が師と仰いでいた、(江戸川)乱歩先生もこの病気で亡くなられました。
乱歩先生と言えば、推理作家仲間で毎年命日に乱歩先生のお墓参りをして、帰りに家でお酒を飲むのが恒例でした。ところがここ十数年、横溝正史さん、大河内常平[つねひら]さん、千代[ちよ]有三さん、角田[つのだ]喜久雄さん、中島河太郎さん、山村正夫さんと、そのメンバーが櫛の歯が欠けるように亡くなられ、最後は主人一人残されて、寂しそうでした。
「(姓の)あいうえお順に死んでいくねえ。『や』だから僕が最後なのかなあ」と言っていましたが、よく考えると、「あいうえお順」なら横溝先生の方が後のはずなんですけどね。
また、主人の下手の横好きのマージャンによく付き合って頂いた色川武大[たけひろ]さんや、ほぼ同年輩で家族ぐるみのお付き合いをしていただいた高木彬光[あきみつ]さんが亡くなられた時は、相当ショックだったようです。高木さんの時は、主人も病院から退院したばかりだったため葬儀にも伺えず、なおさらガックリしていました。
平成七年のはじめ、主人の視力が急に低下してきたので白内障を疑ったところ、糖尿病による眼底出血だと診断された。母校の東京医科大病院に入院したところ、糖尿病だけではなくパーキンソン病まで発見されたのです。
都合二回、四カ月間に及んだ入院生活の間、食事はずっと低カロリーの糖尿病食でしたから、もともと細かった主人の体は四十二キロまで痩せました。それでも入院中からお酒も煙草も、お医者さんの目を盗んでこっそりやってましたし、退院してからは食事も元通りとなって、本人はすっかり元気になったつもりで、朝日の『あと千回の晩飯』の連載を再開しました。しかし、視力が低下し、自分で書いた文字が読めないような状態。私は無理をしない方がいいと止めたのですが、本人がどうしても続けたがった。
平成八年九月には、今度は白内障の手術で入院します。それでも退院してから、四回ほど口述筆記で『続・あと千回の晩飯』を続けたんです。十月十六日付で載ったものが最後はになりました。それは、こんな風に結ばれています。
〈要するに近松門左衛門じゃないけれど、今わの際にいい遺すべき一言半句を私は持たないのだ。
先月下旬から某病院に入院し、白内障の手術を受けた。その結果、白内障の方は良くなったが、網膜出血の方は元に戻らない。糖尿病やパーキンソンは依然として元のままである。結局私は中途半端に病気を抱えたまま、あの世に行く事になるだろう。
いろいろと死に方を考えてみたが、どうもうまくいきそうもない。私としては滑稽な死にかたが望ましいのだが、そうは問屋がおろしそうもない。
ただ、死だけは中途半端ですむことではない。死こそは絶対である。生きているうちは人間はあらゆることを、しゃべりにしゃべるのだが、いったん死んだとなると徹底的に黙る。未来永劫に黙る。
あるいは死ぬ事自体、人間最大の滑稽事かもしれない〉

 

最後の晩飯
朝日の連載が始まった平成六年十月から数えると、実際には『あと二千回の晩飯』だったわけです。
ここ数年も、夕方ご飯を食べながらお酒を飲むという生活は変わりませんでした。「僕はアル中ハイマーだ」なんて笑っていましたが、さすがにその量もだんだん減っていきました。煙草を吸おうとするのですが、パーキンソン病のせいで筋肉が動かず、ライターがうまくつけられない。
衰えていくのを見るのはつらかったんですが、本人はわりと平然としていましたね。「たまには二階の書斎に上がって、本でも読みたいでしょう」と声をかけると、「僕はこうして黙ってじっとしてるのがいいんだから」って。テレビで相撲中継を熱心に見ているなと思って、「どっちが勝ったの?」と聞いたら、「分からない。見ているようで見ていない。眺めているだけなんだ」って言うんです。
何事にも執着が感じられない山田でしたが、死に対してもそうだったのかも知れません。「僕らは同世代の人間がたくさん戦争で死んでいる。敗戦以降は、余生みたいなもんだ」という考え方があった。
勝海舟は枕元で見守る人たちに「コレデオシマイ」と言ってぽっくり亡くなったそうですが、「あれが理想だな」と夫は言っていました。私もできれば最期まで自宅で看取ってあげたいと思っていたけれども、人が死ぬというのはそうあっさりとは行かないものでした。主人を看取って、つくづくそう思います。
今年に入ってからは、パーキンソンがさらに進行して、喋ることがほとんどできなくなってしまいました。外出したのは、三月に日本ミステリー大賞の授賞式に車椅子で出席したのが最後になった。受賞の言葉は、私があらかじめ聴き取って原稿にしたものを、係の方に会場で代読して貰いました。
今年の六月六日未明、山田は救急車で近くの日本医大救急救命センターに運ばれます。パーキンソンによる筋肉の萎縮で気管と食道の間の弁が閉じなくなってしまった結果、のどにものが詰まり、呼吸困難に陥った。
前夜は、お豆腐やお魚の細かくむしったものを私がスプーンで口まで運んで食べさせ、ビールとお酒も、それぞれコップに半分ずつぐらい飲むことができました。でも結局、それが「最後の晩飯」になってしまったんです。
以降救命センターでの五十九日間は、のどを切開して人工呼吸器をつけ、チューブで栄養剤を注入する状態でした。血管が細くなっているので、点滴の場所も毎日変えなければいけない。体重はついに四十キロを割りました。
唯一の救いは、本人の意識は最期まではっきりしていて、表情も穏やかだったことです。亡くなる一週間ぐらい前から、お医者さんには「いつ急変してもおかしくないので、覚悟はなさって下さい」と言われていました。
「もしもの時は、心肺蘇生のマッサージをしますか?」と聞かれましたが、これ以上無理な延命をするのはかえって可哀想だと思い、「いや、結構です」とお断りしたんです。
七月二十八日。午後四時の面会時間が終わり、「夜七時にもう一度来るからね」と呼びかけると、主人はゆっくりと目だけを上下させて頷きました。
容態か急変したとの報せを受けたのは、それからわずか一時間後。再び病室に駆けつけると、モニターが示す血圧がみるみるうちに下がっていき、やがて平らになった。苦しむ様子もなく、本当に眠るような死でした。

夫・山田風太郎は、七十九歳まで「やりたくないことは、やらない」という生き方を貫き、なおかつ友人のみなさんとは「来るものは拒まず、去るものは追わず」といういいおつきあいができた。それだけで幸福な人生だったと思います。
私もとりたてて感謝の言葉をかけられたことはありませんが、山田風太郎の妻として五十年近く、本当に幸せでした。