「個人再生を夢見て - 高橋三千綱」07年ベスト・エッセイ集から

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「個人再生を夢見て - 高橋三千綱」07年ベスト・エッセイ集から

人はいくつになっても夢を語れるものなのだろうか。いや、いくつまでなら、夢を語っても笑われることがないのだろうか。
そういうことを五十八歳の誕生日の日に考えていた。おまえの夢のことなどだれも興味がない、ときっとみんなからいわれることだろうなと思いながら、自分の夢は個人再生をすることだなといいきかせていた。
これは私が借金地獄に陥っているとか、闇金融業者から追いかけられているということではなく、作家としての再生を夢見ているということなのである。
私は自分が世間から忘れ去られた人間であるということが分かっていても「ま、いっか」で済ませてしまう楽天的な男なのだが、昨年一年間で書いた小説がわずか百八十枚となると、これはさすがに悲惨な状況だなと思わざるを得ない。
仕事をしないのは、酒を呑んでいる時間が長いからである。二日酔いで朝を迎え、夕方までに二度昼寝をして、暗くなると小料理屋のカウンターで熱燗を呑んでいるのだから身体から酒の抜ける暇がない。近くの医院で検査を受けたら、γ-GTPが1020にもなっていて、これは久しく見たことのない数字だと医者からあきれられ、自分にとっても最長不倒距離だといったら肝硬変にリーチがかかりますよとたしなめられた。
糖尿病なのでいつも身体がだるい。たまに固形物を口にすると、一時間ほど横になってからでないと次の行動がとれない。その行動にしたって新聞を読むことくらいのものなのだ。指が震えることもあり、爪を切るのに一苦労する。
すべて酒が原因なのだが、これがやめられない。いきつけの小料理屋では私の名前にちなんで「三千盛」という酒を仕入れてくれている。五日間で四本が空になる。酔っぱらって家に帰ってくると、妻と母が不安そうな顔でそこいらに立っている。
九十四歳の母に向かって、先立つ不幸をお許し下さいとは横着者の私でもいえないから、コソコソと寝室のある二階へ昇っていく。足がもつれて寝室までたどりつけず、踊り場で眠ってしまったこともあった。
仕事をしないのだから収入がない。企業のマトリックスに分類すれば、債務超過、営業赤字の状態にある。個人秘書がついてきてくれるのは、彼女のボランティア精神のあらわれである。
そんなこんなで五十八歳の誕生日に再生を誓った。まず、六十歳の誕生日までに小説を三冊出す。エッセイを二冊。合計五冊。その内の一冊くらいは十万部を超えてくれるだろう、とお気楽なことを夢想していた。ご機嫌なっていたのは、酒を呑んでいたからである。
生活費は、会社を上場させて大金持ちになった幻冬舎見城徹に借りるか、株の売買でひと山当てるかすればなんとかなる。そうだ、夢の三連単で一〇〇万馬券を当ててみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えていい気分になった翌朝の膳にはビール瓶が置かれていた。インスリンを脇腹に打ち込んだ後、五十八歳までたどりついたお祝いだと呟いてグラスにビールを注ぐ。そして嬉しいことに、その瞬間から、その日一日を、幸せ色に染めあげられて過ごすことができるのだ。

ベッドに再び横になった私が夢見るのは、スコットランドをひとりで旅した五年前のことである。その頃はまだ元気だった。旅をしようという気力があった。車を運転して見知らぬ町に入り、ゴルフ場を訪ね、たまたま一緒になった人とゴルフをする。
荒涼とした光景の続く北端をいき、一日の内に四季のあるスコットランドの気候の洗礼を受け、くたくたになって小さなホテルにたどりつく。そこの主人が料理してくれたローストビーフに舌鼓を打ち、スコッチを呑む。
スコットランドにはどの町にもゴルフ場がある。排他的な名門クラブでない限り、いついってもプレイをさせてくれる。あれは、ブロアというゴルフ場だった。夕方近くにいったら、もう客はいないのでひとりで回ってくれといわれてすぐスタートした。
海につきでた草原のゴルフ場で、風がきつかった。空には厚い雲がかかり、遠くの雲はどす黒くなって垂れ下がっていた。さびしいはずなのに何故かあたたかい雰囲気に取り巻かれている。それは山羊たちの姿がコースに点在しているからだった。ティインググラウンドに佇んでコースを望むと、フェアウエイに山羊が何十頭と出ている。草を食べているのもいれば、真ん中で座り込んでいるやつもいる。
ボールを当ててしまっては可哀相なので、オーイ、打つぞーと声をかける。何頭かはのそのそ動きだすが、全然無関心のやつもいる。それで山羊に当てないように神経を集中させて、あいた隙間を狙ってティショットを打っていく。
ボールはドローを描きながらフェアウエイに落ち、山羊の間を転がっていく。二打目地点では山羊が私を待っていて、アドレスに入る私をじっと見ている。私の打ったボールはグリーンをとらえてピンに寄っていく。
よしやったぞ、バーディーチャンスだ、と私ははしゃぐ。しかし拍手は起こらない。山羊どもはつまらない顔をしてゴルフバッグを担いで去っていき日本人を見送っているのだ。
ティインググラウンドに何頭もの山羊がいたホールもあった。そこでも私は快心のショットを打った。しかし何の声もかからない。見ているのは口のきけない山羊どもなのだ。
フェアウエイに向かいながら、寂寥感に襲われていることに私は気付く。いくら山羊の目に取り巻かれていても、相手はゴルフの楽しさを丸で分かっていない家畜なのだ。一緒になって喜んでくれることは決してない。
ベッドに横たわり天井を眺めながら、しかし、面白い体験だったと胸の内で呟いている。パー3のコースではあわやホールインワンの好ショットが出て、グリーンを取り囲んだ山羊の群を見ながら、思わず「入るな!」と叫んだことも思い出した。それでひとりでにやにやする。
スコットランドではあちこちのカジノにも顔を出した。老人たちが多く、一ポンド、二ポンドと少額の賭けを楽しんでいた。バーにいくと歳をとった女たちが、厚く化粧をしたすさまじい顔で迎えてくれた。あたしの胸は一メートルもあるのといって、両手で自分の胸をつかんでいた大柄な女もいた。リバプールの町で出会った女とは、ロンドンで再会を約束したものだった。

ロンドンからパリに渡り、ドーヴィルに足を伸ばした。競馬場のある静かな町は八月になると様相を一変した。世界中のあらゆるところから金持ちが集まってきて、夏のフランスを堪能していた。
ここで出会った女におかしなやつがいた。あるときホテルのテラスからゴルフ場を見下ろしていると、「ああ、あなたなのね」と声をかけてきた若い女がいた。ちょっとこぎれいなフランス女だった。
「フロントでひとりで泊まっている日本人がいると聞いたからどんな人かと思っていたの」
女はそんなふうにいって私の隣に佇んだ。六本木に事務所のある広告代理店で働いているとかで、夏休みでパリに帰ってきたばかりだという。そんなことを話していると、どこからか小太りの男が現れてきて、どこにいたんだ、ずっと捜していたんだと目をぎょろぎょろさせていった。
女は、この人の幼なじみで、パリからここまで運転してもらったの、と説明した。昨日の夜中に突然ドーヴィルに行こうといいだすんだから参っちゃうよ、と男は文句をいっていた。
その日、そのふたりを連れてカジノで遊んだ後、海岸にいった。水着をもっていなかった女は、ブラウスを脱ぎ、ブラジャーをはずして遠浅の海に向かって走り出した。私は男に、おい、追いかけなくていいのかといった。逡巡のあと、彼女はいつもトラブルの元なんだと呟いて、女の後を追いかけていった。しばらくして女は上機嫌で戻ってきて、ズボンを穿いたまま海に飛び込んだ男は赤い目をしてふてくされていた。
その男女は翌日パリに戻っていった。数日後にパリにいった私は連絡をとって女と会い、夕食をとった。明日はロンドンに戻ると私がいうと、じゃああたしもロンドンにいくと女がいった。
しかし、待ち合わせの場所に女は現れなかった。夕食のあとでディスコに行こうという女の誘いを断って私はホテルに戻ったのだ。女は夜通し踊り、そのままどこかで沈没してしまったのだろう。女が約束を守るとは思えなかったが、汽車の発車する時刻になっても女が現れなかったときは、ちょっと落胆したものだった。
そういう様々な場面を思い出しているのが、私の夢の時間だった。そのような旅をするにはまず体力をつける必要があった。家の階段を昇ることもできずにいる私には遠い光景だった。
昨年、スポーツジムの会員になった。少しは筋肉をつけなくてはゴルフもできなくなると思って入会したのだ。だが、ボディコンバットという初心者マークの出ているグラスに出た私は仰天した。ボディ・コンバットを、ボディコン・バットと聞違えた私は、ボディコンのネーチャンがバットマンみたいに逆立ちでもするのだろう、と酔った頭を振りつつ参加し、そこでキックボクシングを三十分間みっちり仕込まれ、へろへろになって家に戻り、それ以降一度もジムには顔を出すことなく、会費だけを払い続けているという軟弱さなのだ。
夢の出版、夢の旅を実現するには自己改革を決断して、身体を再生する必要がある。だが、だれにでも簡単にできることが私にはできそうもないのだ。
それでももしかしたら、この男にも根性が残っているのかもしれないと期待するものがある。それは陶芸家の河井寛次郎がいった言葉に激しいショックを受けたからである。河井はこういっている。
「この世は自分を見に来たところ。この世は自分を発見しに来たところ。新しい自分が見たい。仕事する」
私も新しい自分を見たい。夢も現実のものと私自身を見たい。
息子を見て笑顔を浮かべる母を見たい。それが親孝行というものだ。そう思うからである。