3/4「戦後欲望外史-高度成長を支えた私民たち - 上野千鶴子」ちくま学芸文庫 増補〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論 から

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3/4「戦後欲望外史-高度成長を支えた私民たち - 上野千鶴子ちくま学芸文庫 増補〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論 から

TV  - TVという「父権」

固定食卓がもたらしたもう一つのシンボル的ないみは、「だんらん」である。食事のあとも片付けられない食卓に、家族をひきとめたのは、TVであった。TVが登場してから、食卓のうちで「上座」の位置は「TVがいちばんよく見える場所」に変わった。そこが、かつての囲炉裏のはたの「トト座」のように「お父さんの坐る場所」になった。(今日では「お子さんの坐る場所」かもしれない)。
TVがなくても核家族の「だんらん」は確保されたろうか?家族の統合の象徴は、家父長 - 天皇制のミニチュアとしての家族 - だが、敗戦後、「つよかったお父さん」の権威が地におち、あまつさえ、モーレツな職業生活の中で、物理的にも父=夫が食卓に不在がちになると、「お父さん」の代わりをつとめたのが、TVだった。戦前の大家族で、家父長の下に長男から順に上座に坐り、黙々と食卓をかこんだ姿と、核家族がひとしなみに視線をTVの画面に合わせ、黙って箸を動かすさまは、奇妙な符合を見せている。その中に父親も含まれて、一番上席から、ヒタとブラウン管に視線を合わせている姿は、さながらブラックユーモアだ。
父親とは、ヘソの緒が切れずにずるずるとつながった母と子の間に、社会というクサビを打ち込む存在だと考えられている。ほんとにオトーサンは、「社会の窓」だ。そのお父さんが、心理的にも物理的にもいなくなったとき、茶の間にずかずかふみこんだ「社会の窓」は、TVになった。しかしTVは、統制され管理された画一的な「社会の窓」である。父という個性的な存在が、それぞれユニークなかたちで持ちこむ社会ではない。TVが持ちこむ社会の方に、家族が似なければならない。TVとお父さんが食いちがっていたら、お父さんの方がTVに合わせなければならない。子どもたちは、口をとんがらせてお父さんに抗議する - 「だってTVではお父さんとちがうことを言ってたよ」。TVの中の「絵に画いたような」家族に、TVを見ている家族たちが、自分たちの「だんらん」を似せていく。レストランのカラーメニュー同様、TVの教える規範だけが、伝統という規範を惜しげもなく捨て去った核家族のモデルだからだ。食卓からTVを見つめる 何百万という家族が、「絵に画いたようなだんらん」の中で、TVの中の家族に似かよっていく。これは一種のブラックSSF(ソーシャル・サイエンス・フィクション - 空想社会科学小説のことです)に似ていないだろうか?

イカー - 私空間の出前

私空間をどこへでも出前する密閉容器 - それがマイカーである。高度成長期にマイカ保有率は、急速にふえはじめた。道路事情の悪化のために青空駐車ができなくなり、車庫証明が不可欠になってくると、住宅難のせいで日本のモータリゼーションは近い将来に頭打ちになると、その当時予測する人もいたが、幸か不幸かその予測ははずれた。どんな小さな空地や軒先にも、神技のような駐車技術でクルマを突っこんで、わが国のモータリゼーションは、あらゆるかげ口をたたかれながら、とどまるところを知らない。「私はクルマを手放した」という対抗マニフェストが時たま新聞の投稿欄にのるくらいで、そんな声に、マイカー志向はビクともしない。
一時期、マイカ保有熱は、日本独特の喫茶店文化同様、個室やだんらんの場が持てない貧しい住宅条件の反動や代償だと考えられていたが、住宅事情が改善されれば、マイカー志向が鎮静するというものでもないから、べつな理由を考えなければならないだろう。また、日本のように住宅密集度が高く、都市交通が発達しているところでは、アメリカのようなモータリゼーションは必要ないし、進行もしないという説を唱える人もいたが、現実はその予言を裏切って、都市生活者のモータリゼーションは進行したのだから、クルマの機能的な意味を考えるより、それが持つシンボリックないみを考えた方がよい。
わたしは以前に、百貨店の記号論的研究を試みたことがあるが(本書VI章)、その折、デパートとスーパーのちがいは、商品構成や価格帯などの事実の中によりは、むしろ人々の象徴的な意味づけの中にあることを発見した。つまり、デパートは公空間=ハレの場に、スーパーは私空間=ケの場に属するのだ。ハレとケの区別は、人々の意識の中にあるが、それを外側から観察するインデクスはないものだろうか?「ハレ着で行くところとふだん着で行くところ」「電車に乗って行くのがデパートで、歩いて行くのがスーパー」などというインデクスの中に、「靴で行くところとサンダルばきで行くところのちがい」というアイディアがあった。なるほど、「靴を脱いで上がる」という日本人の居住感覚から見れば、素足のえんちょうで行けるか、靴下に靴をはいて行かなければならないかという、はきものによるインデクスは、私空間と公空間の切断をはかるためには、重要ないみを持っている。都市立地のデパートは、靴をはいて電車に乗って行くところであり、生活圏内のスーパーは、サンダルばきで歩いていくところである。それなら、郊外立地の駐車場つきショッピングセンターはどうか?マイカーという輸送手段は、人々を私空間から切り離して公空間へと連れて行くものなのか、それともそうではないのか?いくつかの観察例から、わたしは、クルマは靴ではなくゲタであること、それは私空間をヘソの緒のように曳きずったまま、至るところに出前する四ッ輪のハコであると結論した。事実、郊外スーパーにマイカーから降り立つ家族づれは、サンダルばきでやってくる。 
あらゆる公的な輸送手段は、たんに人々を空間移動させるだけでなく、一つの社会的空間からべつの社会的空間へと、役割移動させる機能をも果たしている。しかし、マイカーだけはそうでない。クルマの中で、人々はどんな役割変換も行わないまま遠隔地へ出かけ、私民まるだしの顔で降り立つ。彼らは、私民のままで公領域に出没するインベーダーたちだ。こういう家族づれを専門に相手にした商売が、マイカーをあてにした郊外ファミリーレストランだが、そこでは、私民たちが、お互いに隣席には全く無関心のまま、核家族のだんらんを繰り広げている。同席する他人への無関心は、公空間で期待される礼儀としてのいんぎんな無関心とはちがう。公的規範としての無関心は、相互不干渉と、相互に相手を妨害しないマナーを含んでいるが、私民たちの相互無関心は、他人に迷惑をかけることに頓着しない無関心だ。子どもたちは、私空間と公空間のちがいを教えられないまま、傍若無人に駆けまわり、それをたしなめた隣の客を、親はにらみ返す。クルマという公空間の中にむき出され、散在しながらお互いに無関心にすれちがう私民たちの「密閉容器」。その上、その中の家族たちは、お互いコピーのように似かよっているというのだ。TVが私空間にずかずか踏みこんだむき出しの公空間だとしたら、逆にクルマは、公空間にインベードしたむき出しの私空間だ。そしてこの二つのハコは、ネガとポジのように、奇妙に符牒が合っている。