「ホームレスな生活 - 鷲田清一」感覚の幽[くら]い風景 から

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「ホームレスな生活 - 鷲田清一」感覚の幽[くら]い風景 から

ひとはなぜ「住まう」のか?無骨な言い回しではあるが、この問いにしばらく向きあいたい。 
還るところ、(そこから)出かけるところ、休むところ、くつろぐところ、寝るところ、籠もるところ。他者と身体を接触させあいながらともに「いる・おる・ある」ところ、つまり、特定の他者と持続的もしくは恒常的に固まって生きるところ。住宅というのは、さしあたっては、そういう場所であるといえる。 
同じことをこんなふうに言いかえてもよい。ひとはある特定の場所になじむ、あるいは、ある特定の場所に住まう、と。
還る、出かける、休む、くつろぐ、籠もる。なじむ、住まう。そしてときに仕事もする。ねぐらでもあり、仕事場でもあるところ。それが、ひとのいう「住宅」である。
「住宅」には、玄関があり、塀(壁)があり、居間があり、キッチンがあり、トイレがあり、風呂があり、寝室がある。ときに応接間、書斎、子ども部屋、ベランダもある。内外の境界、家族と団欒する場所、食の場所、排泄の場所、入浴の場所、それに客(「われわれ」でないひと)を迎える場所、独りきりになる場所、陽をあびる場所である。「住宅」において、ひとはくつろぐだけでなく、調理する、食う、排泄する、寝る、話す、性交する、保育するといった生命維持のためのもっともベーシックないとなみをもする。
それだけではない。かつては、産むということも、療養・介護するということも、結婚や葬送の儀礼も、「家族住宅」でとりおこなった。「住宅」は生命の基本過程のほとんどすべてをいとなむ場所であった。
社会が近代化されるというのは、たしかに個人主義自由主義、議会民主制といった理念の下でなされた社会制度のさまざまな改革によって特徴づけられるものであるが、これをひとびとの「家族生活」という視点から照射したとき、たとえば次のような変化を取りだすことができる。それは、それまで家事というかたちで家族のメンバー、とりわけ女性に集中的に負わされてきた生活上の必要事を、家庭外のサーヴィス機関に委託する傾向を推し進めたということである。近代社会は、調理、排泄物処理、洗濯から加療、保育、教育、介護、冠婚葬祭、死後処理まで、家族の構成員の生命機能にじかにかかわる世話を、金銭と交換に外部の機関に委ねるようになった。レストラン、外食産業、清掃局、洋服屋、クリーニング店、病院、保育園、学校、介護施設、シルバー産業、冠婚葬祭業といった家庭外のサーヴィス機関に、である。「家族住宅」は、生命のベーシックスにかかわるいとなみをおこなう場所というよりも、愛情と性愛とをコアにした親密な関係の場所ともいうべき「家庭」(ホーム)へと鞍替えし、かつての「家事」の大半はその「家庭」の外部へと移管されたのである。

これは、とりわけ生活の近代化の極みともいうべき現代の都市生活のありようを思い浮かべるとき、なんとも皮肉な事態と言わざるをえない。なぜなら現代の家庭生活(ホームライフ)は、構造的には、ホームレスの生活に酷似しているからである。
ハレの空間としてのデパートやレストランに代わって戦後高度成長期に登場したスーパーマーケットやファミリー・レストランは、もはやハレの空間ではなく、家庭での日常生活に直結した装置としてある。それも地域を越えた巨大チェーンとしてである。これが二十世紀の最後の十数年でさらに細分化して、レストランの深夜営業、テイクアウト・ショップ利用者の低年齢化、さらにはコンビニエンス・ストアの急増といった現象を引き起こした。二十四時間オープンのコンビニは、都市部では一区画に一店と言っていいくらいぬ数多く配備されており、そこには飲料、弁当、レトルト食品のみならず、洗顔・清掃用品から化粧品、ハンカチ、下着、荷造り用テープ、文房具、さらには新聞、雑誌、CD、コピー機、はては香典袋や葬儀用ネクタイまで、生活必需品はほとんどが販売されている。極端な言い方をすれば、家庭のなかにもはや冷蔵庫も机の引き出しも要らなくなったということである。洗濯物もクリーニング店かコインランドリーにもっていけば、洗濯機は不要である。
いまその雑誌が手元にないのでうろおぼえで言えば、若林幹夫がかつて都市論関係の雑誌で書いていたように、現代のワンルーム・マンションの生活は、都市に寄生するという点で、「ホームレス」とよばれるふとびとの生活形態に構造的に同化している。私的な領域を家庭のなかにどんどん押し込むのが「マイホーム」の理念であったとすると、それを逆に生活過程をことごとく公共の機関に寄生させるのが「ホームレス」という生活である。「ホームレス」は、レストランのゴミ箱を冷蔵庫とし、公衆便所をトイレとし、ときに公園の水道や噴水をバスルームとし、地下道や銀行の玄関を寝室とする。その意味で、みずからはなんの装備ももたずに都市に寄生しているわけだが、ワンルーム・マンションでの個人生活は、まさにそうした「ホームレス」の生活スタイルに酷似してきているというわけだ。これが近代社会における家事の外部化のストレートな帰結であるとすれば、近代の家族生活は、はじめからホームレスを志向していたと言わざるをえない。
中心の形態が、その対立項としてその周縁に追いやったものに類似してくる。これは中心と周縁の対立じたいがじつは同型的な地盤の上になりたっていたということだ。その地盤が透視できるところまで、住宅論はいったん潜航しなければならない。

「住宅」にこだわりつづけてきた建築家、山本理顕は、現代の家族住宅には、家族の擬態しかないという。「居間には一家団欒などという期待、ベッドルームには夫婦の愛情という期待、子供部屋には子供との正しい関係という期待」......。だれももはや核家族が社会の揺るぎないユニットだとは思っていないのに、住宅のほうはあいも変わらず「親愛な核家族」という幻想を前提に造られている。そう指摘する山本は、家族にとっての住まいというものをくりかえし設計するなかで、つくづく、「家族というものは寂しいものだと思った」と漏らしている。

家族というあまりにも小さい関係が、それでもその中に関係というようなものができあがってしまっていることが、そしてその関係が内側だけで閉じてしまっていることが、その関係が外に対して何の手がかりももっていないということが、そういうことが寂しいのだと思う。
要するに、今わたしたちが持っている家族という単位は、社会的な単位としてはあまりに小さ過ぎるようなのである。ひとつの単位としての役割を既に果たせないほど小さいのだと思う。それでも、この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、つまり社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできているのである。だから、家族が社会の最小単位としての役割を果たせなくなっているのだとしたら、それは、社会の側のシステムの不備を調整することがもはやできないということなのである。(「細胞都市」)

何度も念を押すかのように同じフレーズをくりかえすなかに、山本のやりきれない想いが強くただよう。そのやりきれなさを構造的に析出したいという、強い意志があらわれている文章である。
こうしてわたしたちは、はじめの問いかけに戻る。生命維持のためのもっとめベーシックないとなみを家族と協同でするところ、それを「住宅」と定義してよいのか?別の言い方をすれば、ある特定の場所になじむ、もしくは住まうというのは、ひとにとってどういういとなみなのか?そういう問いである。