「磯田光一納骨式挨拶 - 阿川弘之」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

f:id:nprtheeconomistworld:20190812071139j:plain


磯田光一納骨式挨拶 - 阿川弘之」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

本日は磯田光一さんの納骨式にお招きを受けまして、その上スピーチの御指名にまであづかり、たいへん光栄でありますけれど、おかげで並ゐる各社の編集者や作家評論家のみなさん方に、私の墓所が此処、鎌倉の浄智寺にあることが露見してしまひました。露見したつて構はないと言へば構わないのですが、以前私は、死後墓なんぞ要らない、自分の灰はどこか海へでも撒いてもらへばそれでいいと度々広言してをりました。その者が禅寺の境内に墓地を持つてゐるといふのは甚だ矛盾した話で、矛盾した話には説明が要ります。その説明をするのがめんどうくさいから、今までほんの一、二の人以外、このことを一切話さなかったのです。けふ、それがバレてしまつた。致し方ありませんので、かういふ矛盾に立ち到った経緯と感想とを申し述べて御挨拶に代へることにします。
実は、自分の家の墓でよければすでにあるのです。広島の寺町通りにありまして、両親や兄が入つてゐるのですが、これがどうも気に入らない。戦前の寺町ならともかくも、原爆の焼け跡に新しく建つたお寺で、本堂などいやに堂々としたコンクリート造りだし、当家の墓の裏側はすぐバス通りになつてゐて一日中騒々しい。めんどうくさいのもいやだが騒々しいのもいやだ、大体信仰心が無いんだから俺あんなとこへは行かないよと、それが骨灰を海に撒いてくれと言ひ出した原因の一つだったのですが、調べてみると、さう簡単には事を運べない。少くとも日本人が日本の海でこれをやるのは、国の法律が許さないらしい。中々厄介なのです。アメリカやヨーロッパなら出来るとのことで、それも考へましたし、いつぞや海外旅行中さる知人とこの件を相談してみたこともあるのですが、さて異国の海の底で独り永遠の眠りにつく決心をするかといふ段になつたら、はづかしながらやはりためらひが出ました。ミッドウェー海戦レイテ沖海戦で戦死した人たちは皆、ある意味でさういふ葬られ方をしてゐるわけですが、如何にもあはれな気がする。
となると、結局国内どこかに自分の墓を持たねばなりません。それが、今申し上げました通り、広島の両親の墓へは入る気がしない。むしろ親たちの分骨だけでも、もつと静かなところで将来孫子と一緒にしてやりたいやうに思ふ。しかし、当節はやりの何々霊園とか墓苑とかいふのは、お墓の団地、死者の簡易住宅のやうで、これ亦気に入らない。
その点、鎌倉の古い禅寺の境内は、さすがにしみじみした落ち着きと風格のある美しいところです。何年前でしたか、此処からけもの道一つ越えた向ふの東慶寺で亡き高木惣吉海軍少将の法要があつた時、私は、今そこの席に坐つていらつしやる井上禅定老師に、恐る恐る、かういふ寺に我々が頒[わ]けて貰へるやうな墓所なんかもう無いでせうなアと、謎かけ式の質問をしてみましたところ、いや、東慶寺には無いが、自分がかけ持ちで住職をつとめてをる隣りの浄智寺になら未だ多少の余地があるよとのお答へでした。禅定老師は尾崎一雄さんの「ペンの散歩」に登場するし、文壇にも知友が多い名高い和尚さんですが、一方、東慶寺の墓地に眠る高木海軍少将を救国の功臣として尊崇してをられつ、その御縁で私はお近づきを得たのです。それからもう一人、井上禅定老師と並んでそこに坐つてをられるのが、当浄智寺の副住職朝比奈宗泉師、名前からお察しがつくかと存じますが、円覚寺の管長をつとめた朝比奈宗源和尚の御令息でして、だけどお若い頃にはTBSで「兼高かおる世界の旅」の初代プロデューサーをやつてゐたといふ空飛ぶお坊さんであります。このお二人に、そんなら墓所を頒けてほしい、志賀先生の葬式を無宗教でやつた手前、自分のそれも無宗教になるかも知れないがその点一つ悪しからずとか、色々勝手を並べて頼みこんだ末にお頒け頂いたのが、あの急坂の上の、一番奥の行どまりの一と区劃です。自分の墓場を自慢するのもどうかと思ひますけれど、実にいい所ですよ。春は見事な花をつける桜の古木を真下に見て、紅葉の季節もいいし、雪景色もよさそうです。此処と決つた時、何だか早くこちらへ移つて来たいやうな気持にすらなりました。
浄智寺鎌倉五山の一つですが、東慶寺とちがつて文士や学者の墓がそんなにたくさんありません。多分、島木健作さんのお墓ぐらゐのものでせう。だからうるさくなくて、その点も有難い。実際、先年初めてこの話を持ち出した時、ぢやあ東慶寺の一隅に何とかしてやろうと言はれても、私は迷つたかも知れません。西田幾多郎安倍能成、野上豊一郎彌生子夫妻、和辻哲郎高見順小林勇、それに高木惣吉少将 - 、思ひ出せば未だ未だあるはずですが、こんなに大勢の偉い人々にまじつて土の下で安眠せよと言はれても、窮屈で安眠なんか出来やしない。浄智寺でよかつた、ほんとによかつた、いづれあすこで、人知れず静かに、とどのつまりの高みの見物と決めこむつもりでゐたところ、昨年八月亡くなられた澁澤龍彦さんが、あらうことかあるまいことか、突然私の隣りへもぐりこんで来た。つい目と鼻の先にお墓が建つたのです。のみならず、磯田光一未亡人までが、澁澤夫人にすすめられて浄智寺を御覧になり、すっかり気に入ってしまつて、昨年他界された御亭主を、やはり私の目と鼻の先へもぐりこませて来た。さうして本日の納骨式となつた次第ですが、かういふことは困る。来ちやいかんとは申しませんし、お二人を嫌ってゐるわけでもないけれど、私は文学論が苦が手なのです。長々と文学を論じ文壇を論じてやまないといふタイプの人とは概して友だちになりにくい。磯田さんになんか、作品の上でも色々好意ある読み方をしてもらって、感謝しなくてはならぬ思ひ出ばかり多いのですが、ただ、学殖や閲歴から察するに、お二方ともどうも文学論をなさりさうな気がする。墓場で文学論、それが困る。かういふ所へ来たら、「人の声より禽[とり]の声」ではないでせうか。
私がこちらへ移住するのはいつのことか、未だ予定を立ててをりません。もしかすると十年ぐらゐ先になるかも知れない。御両所はその頃、墓石なぞもやうやく苔蒸して、新入りの私を先輩顔で迎へる可能性があります。だけどね、間違へちゃいけないよ。齢から言つても墓所を手に入れた順番から言つても、こつちが先輩なんだといふ事実、お忘れなきよう願いたい。むれん、かくなる上は、お互いどちらが先輩であるとかないとか言はず、末長く仲よく眠りたいです。ただし、静かに眠りたい。ついては七面倒くさい文学上の議論など、どうかお持ち出しにならぬやうに、持ち出したつて聞かないし、聞いたつて分からなんだから。それともう一つ、あなた方を慕って墓参に来る文学青年かゐても、余計な入れ智恵してあれから奥へ差し廻したりしないでほしいのです。けふはこのこと、磯田さんのお骨と、併せて澁澤さんのお骨にしかと申し聞かせるつもりで参りました。御遺族並びに御列席の皆さま方も、何とぞ御賛同御協力を賜りたいと、お願ひして、私よりの御挨拶を終ります。