「品格 - 筒井康隆」講談社文庫 創作の極意と掟 から

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「品格 - 筒井康隆講談社文庫 創作の極意と掟 から

「作家の品格」というような「品格本」があったかどうかは知らないが、品格など作家には無用、と思っている人は、作家であると作家以外であるとにかかわらず多いだろう。ではそもそも作家に品格などというものが必要なのだろうか。最初の「凄味」の章で小生、「小説を書くとは、もはや無頼の世界に踏み込むことであり、良識を拒否することでもある」と書いている。そんな輩に品格など無用のものである筈だ。ところが小生、実は「無頼」であるが故の品格、「良識を拒否」しているが故の品格、というものが存在すると考えているのだ。
ここから先は「品格」という語の解釈次第ということになるので、読者はあくまで、これは筒井康隆の考える「作家の品格」であると思って読んでいただきたい。つまりその作家によってその作家に附随する品格というものは違ってくるであろうからだ。例えば柴田錬三郎の考えていた品格とは「勇気」であったと思う。彼は「勇気とは錯覚だ」と言っていたが、これは小生もそうだと思う。冷静に判断すれば勇気など奮[ふる]うとあきらかに怪我をするとわかっている局面でも錯覚によって勇気を奮うということであろう。剣豪作家であった柴錬にとって勇気は身を律する上で大切なことだった。
彼は二人のちんぴらにからまれ、「流行作家なのだから金を持っているだろう。出せ」と嚇[おど]された。彼は「今、三十万円ほど持っている。しかしお前らにやる金は一円もない」と一喝した。ちんぴらたちは大声で罵ったものの、結局は何もせずに立ち去ったという。これが創作なのか事実なのかはわからない。しかしこういうことを事実として書いた以上柴錬はこうした行為による結果を覚悟の上で書いたに違いないのだ。だからと言って作家のすべてがこんな勇気を持つ必要はない。おれならおとなしく金を渡すたろうし、カードの類だけは勘弁してくださいと懇願するかもしれない。これが即ち作家としての品格の下落ではない。
ハードボイルド作家だった生島治郎もまた自己の作品に対する責任のようなものを、日常の品格として維持し続けていたにちがいなかった。タクシーに乗っていて運転手と口論になった生島氏は、怒った運転手が車をとめて「降りろ。外で決着をつけよう」と言うと、ただちに車から降り、落ちていた鉄パイプを拾いあげた。運転手は恐れて詫びたという。こういうのも柴錬の言う錯覚の勇気であり、もしそこに鉄パイプが落ちていなかったらどうするつもりだったのか、運転手が殴りかかってきたら鉄パイプで殴るつもりだったのか、そこまでは考えなかったのではないかと思う。とにかくその瞬間、生島氏に必要なのはハードボイルド作家としての品格の維持だったのである。むろんこんな真似、小生にはとてもできない。
中上健次は常づね、小島信夫の書くもの、あるいはその書きかたに疑問を持ち、怒りさえ抱えていた。遭えば殴ってやるとまで言っていたらしい。ある時パーティの席で小島信夫に遭い、彼は凄まじい顔で迫った。小島信夫は恐れて「殴らないでくれ」と言いながら逃げまわったという。これで小島信夫の作家としての品格が下落したかというと、そんなことはない。これこそが小島信夫の品格なのである。こういう正直さは誰にあってもいいものだと思う。
だから作家の誰それにとっての品格、ということは言えるのだが、作家すべてが持つべき品格、というのはあまりないのではないだろうか。基本的には、作家は正直でなくてはならないと思う。「いつも嘘ばかり書いているのだから、実生活では嘘はつかない」としばしば小生は冗談めかして言うのだが、ある程度は本当のことだ。自分の利益のために、という但し書きはつくが、政治家のように嘘で保身を図ったり、言うべきことを隠して黙っていたりするなどは、作家のするべきことではなく、品格にかかわることだと小生、思っている。
だが、それで困ることがある。「これはご内聞に」と頼まれたことまでべらべら喋る趣味はないものの、書かねばならぬことなら当然「いや、それは書かせて貰う」と断るのが作家としての通常の行為たと思っているのだが、これはあくまで作家としてであって、役者として何かに出演することが決定した時、たいていは情報解禁日というものがあり、それまでは黙っていなければならない。しかしそれが出演当日ぎりぎりであったり、オンエアされるぎりぎりまでであったりすると、わがファンの中には「なぜもっと早く教えてくれなかったのか」と言ってイカる連中がいるのである。こういう場合は沈黙しながら、今おれは作家ではなく、役者なのだからと自分に言い訳することになる。
作家はよく浮気をする。男性の作家は一般の人よりも飲む機会が多かったり、女のいる店に接待されたりするからだが、浮気そのものは別に作家の品格を下落させるものではない。発覚した時の対処が問題なのである。作家は比較的マスコミから守られてはいるが、それでも相手が有名女優だったりすると許してはもらえない。その時の騒ぎに対しておろおろするくらいなら、最初から浮気などしない方がよい。こういう場合は相手との情事やマスコミの騒ぎをきちんと書くことが大切である。レポーターに対しては、応答が面倒なら「いずれどこそこに書くから」と言えばたいていは許してくれる。時にはのっけから体験を書こうとして浮気する人もいる。
最後の無頼派と言われた檀一雄は、舞台女優の入江杏子と愛人関係にあり、山の上ホテルで同棲を始める。家庭を顧みない放蕩であり、通常ならば倫理性を疑われてもしかたのないところだが、彼は「どのような不埒な生きザマであれ、絶えず己の頂点にあり、絶えず己に指令している人生でなかったら、何になろう」と言って恥じるところがない。子供が窃盗事件を起したため警察で係官から家庭環境について苦言を呈されても、堂堂と反論する。そして自分の生き様を、長い時間かけて苦吟しながら「火宅の人」という長篇に結実させて発表し、死後、文学賞を受賞する。この作品に関しては「グウタラ作家檀一雄」という見出しで論評されたりもするのだが、己の生きザマを貫いて、堂堂と亡びに至る覚悟であり、わが生存の審美的覚悟まで変えるわけにはゆかないと、何ら反省の色はない。
これこそが檀一雄の作家としての品格なのである。作家の品格として誰が持っていてもいい品格であるとさえ言える。妻や子を極度の貧困に陥らせ、後年女優・檀ふみとなった長女が腹をすかせて鶏の餌を食べたりしていても、パリなどを放浪していて家にもどらないような人間に品格があるのかと言う人もいようが、ここはあくまで作家としての品格を論じているのである。
犯罪者であっても作家としての品格は保ち続けた作家もいる。泥棒作家と言われたジャン・ジュネである。自身の体験を中心に描いた「泥棒日記」において彼はキリスト教の用語や概念を裏返し、観念の思索を深めていくのだ。その作品はジャン・コクトーサルトルなど多くの文学者から高く評価され、終身禁固刑だった彼は文学者たちの請願で大統領からの恩赦を得る。ただ泥棒、裏切りなどの悪徳からのみ、彼に作家としての品格がないなどとは言えないのだ。
だからといって、作品が傑作でありさえすればその作家には品格があるということになるのかと言えば、それも少し違うようだ。名作と言われるような作品をいくつも書きながら、小生の眼からはあきらかに品格のない作家がいるのである。要はたとえ自身が品性に欠けるような行いをしても、きちんとそれに対峙した作品を書いていればいいのだが、自分のことは棚上げにして道徳家ぶった語り手や主人公を登場させ、他を糾弾するといったていの作品を書いて評判を得るのが品格に欠けると言っているのだ。作品さえよければいいだろうと思う人もいるだろうし、作家本人の品性のなさなどはなかなか一般人が知ることはできないから、それでいいのかもしれないが、文壇マスコミの評判が悪いから、例えば死後など、いずれは露呈することになる。しかしこうしたことはあくまで小生が思うところの「作家の品格」である。別の意見があってもおかしくはない。
こういう視点から見ると、「転向」という行為などはささやかなものであり、品格の下落ではないと言える。一時期、特高警察から迫害を受けて死んだ小林多喜二の「蟹工船」がブームになったが、彼との比較もあって、それ以前から転向した作家たちが批判を受けたりもしていたのだ。転向したのち、まさにその転向をテーマにして書かれた作品には村山知義「白夜」や中野重治「村の家」や島木健作「生活の探究」がある。これらの作品を書いたことで彼らの品格は保証されている。
しかし特高警察に検挙されることのなくなった現代においても「転向」ということばは存在し、一般には考えを変えたり団体から離脱して別の団体に移った者が「日和った」「裏切った」などと非難の対象になることは多い。作家においては左翼的な活動をしていながら考えが保守的になった人を、転向者とすることもある。これらは「揺蕩」の項で述べたように長時間をかけての精神の揺れに過ぎず、これが成長の証しであると言うこともできるわけなので、決して作家としての品格の下落ではない。