「面白さに拘り続けた人 - 筒井康隆」新潮社 不良老人の文学論 から

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「面白さに拘り続けた人 - 筒井康隆」新潮社 不良老人の文学論 から

昭和四十二年、丸谷才一は貝殻一平の名で読売新聞に大衆文学時評を連載していた。この頃から彼は日本の私小説的な暗い近代文学を嫌っていた。ここでわが「ベトナム観光公社」が山田風太郎作品とともに取り上げられて、小生が直木賞候補になり中間小説誌にデビューするきっかけとなる。「人間の想像力には無責任空間というものがあり、こういう笑いを憤慨してはならず、小説家の芸をほめたたえるべきなのである」そしてわが文章を小気味よい良質の文体と持ちあげてくれた。すぐさま「小説新潮」の横山正治、「オール読物」の鈴木琢二、「小説現代」の大村彦次郎が次つぎと原稿依頼にやってきた。丸谷さんは、このままではいつまでもSF雑誌にだけ書いているマイナー作家かと気落ちしていた小生を中央文壇に引きずりあげてくれたのである。
直木賞に何度か落ちたのちのことだが、丸谷さんは小生と池澤夏樹谷崎賞を与えてくれた選考委員の一人でもある。池澤夏樹もまた丸谷さんによってスポットを浴びた作家だった。また丸谷さんが早くから村上春樹を推薦していたことはよく知られている。だが彼もまた芥川賞を取れなかったのだ。文壇のなんとなくおかしい部分が丸谷さんによって暴かれていくようであった。その後も小生は丸谷さんの強い推薦によって読売文学賞も貰っている。節目節目で力づけてもらったわけで、わが今日あるは丸谷さんのお蔭といってよい。丸谷才一大江健三郎の二人が同時代の作家であったことは何という幸福であり、幸運だったことか。何かに迷っている時、丸谷さんが機会を与え、大江さんが嚮導[きようどう]してくれたのだった。
丸谷才一の凄さを感じたのは「女ざかり」を読んだ時である。女主人公は新聞社の論説委員なのだが、その論説の何回分かを字数行数そのまま書いているのだ。これは新聞の字数制限や行数制限、その他用語用字などの厳密さを知っている者にとってはとんでもない離れ業である。さらに同じ頃発表したわが作品「パプリカ」との物語構造が似ていたこともあって感激し、「ほとんど退廃的なまでに爛熟したディケンズ的市民小説」と書評で激賞したことから親密におつきあいするようになった。対談や、谷崎賞の選考会などで親交が深まったのである。三年前テレビ番組で「女ざかり」を取りあげた機会に、この傑作が絶版になっていることを知り、ぎゃあぎゃあ騒いだために再版され、丸谷さんからは「友情に感謝」というはがきを貰って、少しは恩返しできたのかなと思ったものだ。おつきあいとしては他に「輝く日の宮」の書評を書かせてもらい、わが翻訳「悪魔の辞典」に解説を書いていただいている。
蘊蓄を面白く読ませる技術を持つことでは誰も丸谷才一には敵わなかった。処女作の「笹まくら」から最近作の「持ち重りする薔薇の花」に至るまで、時には一見本筋と関係なさそうに思える蘊蓄が登場人物や語り手によって語られるのだが、これはごく普通の知識や知性を持つ読者にとって実に面白く、しかもそこいら辺の専門書などでは享受できない新鮮なモダニズム思想による蘊蓄だからこたえられないのである。丸谷さんには「文学のレッスン」という、もと「文學界」編集長でわが担当者でもあった湯川豊のインタビューによる著作があるが、その造詣の深さは驚くばかりであり、おれはこんな凄い人と平気で対談などで話していたのだと思うと慄然としたものだが、よく考えてみれば話す以前からその凄さはよく知っていたのであり、蛇に怖じない盲である無謀さこそがおれの作家性であり小説家としての良さなのだと自分を慰めるしかない。
丸谷さんとは八年間にわたって谷崎賞の選考委員を共にさせていただいたのだが、選考が終って食事をする時も丸谷さんは座を楽しませることを好まれていた。面白い話を面白く語る話術、話芸と共に、あの大笑いは忘れられない。それが聞きたいばかりに井上ひさし池澤夏樹らとギャグを競いあうような形になったものだ。丸谷さんを大笑いさせた時の歓びというのは観衆に受けた時の喜劇役者のそれに匹敵する。真面目な文学的議論は別として、小説、エッセイ、座談、すべてにわたり丸谷さんは笑いに拘り続けていた人だと思う。
昨年、大江健三郎、小生、丸谷才一の三人で朝日新聞と「小説トリッパー」のための鼎談をしたのが最後になってしまった。あれは至福の時間だった。礼状を兼ねて「またあんなことができればいいなあ」と感想を書いたところ、「ではそのように心がけておきましょう」という返事をいただき、これはこれでまた大変なことだから書かなきゃよかったと反省して恐縮していたところだった。亡くなった日の夕刻、文藝春秋・村上和宏や朝日新聞・大上朝美からの訃報で、絶対に九十歳は超す筈と思っていたからえらいショックだった。元気そうだったし、「持ち重り......」と併行してもうひとつ長篇を書いているという話も聞いていたのだ。何より残念なのは現在朝日新聞に連載中の、古語や枕詞を多用した「聖痕」を読んでもらえなくなったことである。喜んでもらっていた筈なのでまことに口惜しい。年上、同い年、年下の作家や友人が次つぎと他界する中、すばらしい先輩をまた一人なくしたことはこの上ない悲しみだ。