「幸福 - 筒井康隆」講談社文庫 創作の極意と掟 から

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「幸福 - 筒井康隆講談社文庫 創作の極意と掟 から

小説家に不幸などあるのだろうか。小説家の言う自分の不幸はそれ自身が贅沢である。小説家になりたくて苦しんでいた昔日の初心を忘れて不幸を誇大に感じ、それに悩んだり、時には書いたりする慢心は小説家の品格にかかわる脳内物質の異常分泌だ。などと書きながら小生だって作家生活の日常にかかわるちょっとした不具合を面白おかしく書いたことがある。いや。書いた筈である。おそらく書いたたろう。あっ書いています。書きました。だが書いたとしてもそれはささやかな不満であって、作家として生活していることへの遠回しの自慢であったり、作家志望の人たちへの遠回しの顧慮であったり、編集者への遠回しの牽制であったりする。今すぐ作家になれていたらどんなに嬉しいだろう、作品をなかなか雑誌に載せてもらえず、作家として生きていける日を熱望して悶悶としていたあの何年間かの時代を思い出せば、今現在作家として認められている幸福は何ものにも換え難いものがある筈で、その証拠にはある朝目醒めたら無名の昔に戻っていたなどの悪夢を想像し慄然とすればわかる筈だ。
いったい小説家の不幸にはどんなものがあるのか。ニュースを着想に利用しようとして本質が見えなくなる。ファンと称する莫迦[ばか]から手紙や電話がくる。執筆活動のため社会と疎遠になる。自分の名を知らぬ人間が腹立たしい。作品世界にのめりこんで自分の人生が犠牲になる。「三文文士」「もの書き風情」などと言われる。ろくな批評が出ない。金銭に?淡としている態度を示さねばならず、だから安い原稿料を支払われ、講演料も安く、文句を言えば金に汚い先生と言われる。読んでくれと素人の原稿が送られてくる。理解者が少ない。のっけから共産主義者だと思われている。バーわクラブへ行っただけで「堕落した」と言われる。マスコミの取材はこちらの話を聞かずつまらない質問ばかりであり、重要な部分をカットし、ひどい顔写真を撮って載せる。本を読んだというだけの見知らぬ輩が気安く話しかけてくる。基地外の人が自宅にやってくる。自分を見て子供が泣いた。犬に吠えられた。じろじろ見られる。こっちを見て小突きあう。テレビ局では芸人と同じ楽屋だ。社会運動から寄附を求められる。生活時間が不規則になった。家族まで莫迦にする。止めは有名になり過ぎると遺族が面倒がって葬式を出してくれない。
もうおわかりと思うが、こうした不幸とまでは言えない単なる不満の大半は作家としての慢心にある。あの日のことを思い出し、こうした不満の湧出はあの日の自分ならなかった筈だし、あの日の自分ならどれもこれも当然の扱いと思い、むしろ喜んだ筈のものであると思えば納得できようというものだ。だいたいこういう不満を持つ作家は新人賞などの文学賞を早いうちに獲った人に多く、あの日の苦しみを長く体験していないので初心に還るのが難しいのである。まあ、わからないこともない。
もし不満を書くのなら小説家としての不満ではなく、日頃誰でも抱いている一般人としての不満を書くのが無難である。無難というよりは普通の人よりもうまく書ける筈なのだから読者を喜ばせることにもなる。小生もなるべく誰でもが持つ不満を面白おかしく書くようにしているが、それすら曾て山野浩一から「誰にでもあるような不満を書いている」と批判されたことがあるので、できれば文学的または超現実的または哲学的に書いた方がよいのではないだろうか。 
さて次にいよいよ「小説家の『幸福』について書かねばなるまいが、これはあまり面白くない。不幸に比べて他人の幸福はほとんどの人がよろこばないからだ。それでもまあ、書いておこう。食通と思われ、料理店ではいい席に案内され、料理も旨い。文藝春秋の庄野音比古によれば「この店は一人で来るといつも不味いのに、筒井さんと来るといつも旨い」のだそうである。気難しいと思われ、だいたいは丁重に扱われる。社会的発言力ができた。多少の非常識が許して貰える。我儘を言うと喜ばれることがある。本が無料で贈呈されてくる。映画の試写会や芝居に招待される。編集者を通じて偉い人や専門家に取材ができる。夜更し、朝寝坊をいくらしてもいい。作家同士の交際ができ、小説に関する知識がどんどん増える。厄介な資料集めを編集者がやってくれる。ラフな服装でどこへでも行ける。背広を着なくていい。莫迦なことを言っても笑われず感心される。自分をいじめた連中を見返してやれる。自分を莫迦にした奴らを莫迦にできる。いい着想がなくてその時の大事件を作品に書いても、かえって話題になり評判がよい。見知らぬ人とも話ができる。家族から尊敬される。そして何と言ってもプロの小説家になれたのだという満足感。.....。