2/2「飛ぶ魚、潜る人 - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から

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2/2「飛ぶ魚、潜る人 - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から
 
沖縄からボルネオ海にかけてトビウオが多い。波間からだしぬけに現われて、白い腹を見せながら海面すれすれに、かなり迅く遠く飛んでゆく。ずいぶん遠くまで、ときには三百メートルは充分にとぶ。一二度海面にふれて三段跳びみたいな真似をするものもある。着水はかなり不器用で、水しぶきをあげてもぐりこむ。飛んでいるさまは、海燕にもにているが、十数匹がばらばらと群がって飛びたつときは、いくらか大型のバッタにも似ている。一度五センチばかりのかわいらしいのが船にとびこんできたが、胸びれをひろげて上から見ると、まるである種のスズメ蛾を、透きとおった胸びれがスカシバの類を思わせる。大きな奴はむろんそんなふうには見えず、これはやはり魚である。
ルソン島の沖あたりから、種類が変ってきたようだ。前方から見ると頭部が三角形をなし、腹びれがずっと後方についている。インド洋にでると、胸びれが小さく重い身体をひきずるようにして飛びたつ種類ががいるが、私にはよくわからない。
彼らはシケの翌朝に甲板を捜すと、よく青く光って打ちあげられている。停泊中の船の灯火にとびこむこともあり、トビウオが目にぶつかって怪我をしたという船員の話も聞いた。
トビウオは誰でも知っている魚だが、その割に生態や分類は遅れているようだ。その飛翔についての観察も諸説があるらしい。熊凝氏の『南極観測航海記』には次ぎのような記述がある。
「トビウオは船首で切る波がちかづくと、驚きのあまりどっちに逃げようかと右往左往する。しかしどうしても逃げられないと感じたとき、尾ヒレを水中に残し、上半身を水面スレスレにだし、逆Lのように下腹部を彎曲させて尾ヒレを一杯にひろげてまず跳躍、つづいて滑走、飛翔の順序になるらしい。ヒレの構造上、直進しかできないと言われていたが、実際は曲ったコースもとるし、コースを変えることもあるようである」
実際トビウオは真直ぐにもとぶが美しいカーブを描くこともある。ヒレは拡げたままということになっているがその飛翔距離からおして信じがたい気もする。私はたしかに胸びれがあるときはふるえるのを見たように思うが、確信はできない。
トビウオに種類があるらしいのは前に述べたが、普通の図鑑には一種しか載っていない。松原喜代松氏の『魚類の形態と検索』によると、トビウオ科は四亜科にわかれ、ハマトビウオ亜科が二属にわかれ、それぞれかなりの種を蔵している。もしも各船に一人ずつ奇特な人がいて、甲板にあがってくるトビウオだけでもフォルマリン漬けにし、場所と日付を記入して持ち帰ったなら、トビウオの分布分類学に相当の貢献をなすことだろう。アフリカ北西沿岸で漁をしていたときには、かなり大きな四十センチくらいのトビウオが船にあがってきた。八丈島辺のトビウオに似ていると船の物は言っていた。
船員はトビウオを拾うと腹をひらいてデッキの上に並べておく。照りつける南国の陽光が、やがてこれを格好の乾物にしてくれる。

それにしても、ここ十日ばかりのうちにも海はさまざまに変貌してみせた。海はもともと形がなく、秩序もない無意識そのもののようでもある。誘惑的なその測りがたさ。しかし夜の船尾に立ち、絶え間ないエンジンの響きの中に風と波のさわぐのを聞いていると、このくろぐろとうねる海そのものを拒否せねばならない精神というものをも私は感じた。原始の生物が長い過程を経て海中から陸上へと進んでいったように、無意識から精神が誕生した。だが、この目くるめくような深海 - たとえば沖縄のあたりで海図は水深七〇〇〇メートルを示している - は、地球の過去の深さも告げてくれる。人類の出現をかりに鮮新期の終りとしても、チグリス、エウフラテス河畔に最初の文明の痕跡が現われるまで五十万年、われわれの文化というものがわずか六千年という取るに足らぬ表皮にすぎぬことを知らせてくれる。無意識の領分は大きい道理だ。
むずかしいことはぬきにしても、シンガポールの水族館で見たさまざまな魚たちの姿態を私は思いだす。マライ産のノトプテルス・チタラというのは、真黒のノッペラ棒な鯉の化物みたいな奴で、見るからに不気味だ。英名をラザール・フィッシュと呼ぶヘコアユは、ドジョウくらいの平べったい半透明な魚で、逆さまに水中に直立している。少しも動かず、ほそい平べったい奴が何本も何本も(たしかに何匹という気にならぬ)つるされたように逆立ちしている。タツノオトシゴは身をそらしてゆっくりと浮いてゆき、ゆっくりと沈んでゆく。落着いているようで、どこかすねたような目のギョロつかせ方だ。コバンカタダキは宿主がいないので仕方なしにガラスに吸いついているが、その吸盤は自然のものとも思われない。こうして妙てけれんな連中がこの海面の下には数知れずうごめいているのだろう。
そして、さらに深海に至っては、まったくといってよいほど探られていないのだ。記録に残っている最初の海中の探検者は、十七世紀のイタリア人ロリエで、以来この未知の領域の訪問者は少しずつ現われている。イスパニア人セルボは木製の球をこしらえて海にもぐったが、そのまま二度と浮いてこなかった。人間がやや本格的に深海に挑戦しだしたのは十九世紀の末からで、例のバチスカーフは先年四〇〇〇メートルの潜水をなしとげ、四〇五〇メートルの海底に咲く「海のクルミ」を写真にとった。しかしこれとても、私の船が通ってきた沖縄あたりの深度の半分にすぎないのである。ちなみに世界で最も深い海はミンダナオ島東方のエムデン海溝で一〇八三〇メートルあり、また地球上のすべての海の平均の深さにしても三七九五メートルもある。(追記。つい先日アメリカ海軍のバチスカーフはマリアナ海溝でついに一万メートル以上もの潜水に成功した。どうもこう物事の進捗が早くては、本など書くほうはたまったものではない)
数字だけ並べると簡単なようにも思えるが、海にもぐるには途方もない圧力と闘わねばならない。照洋丸にはアラフラ海で真珠貝をとっていた漁夫が一人乗りこんでいたが、彼の話によると、現在では領海問題と浅いところは採りつくしているため、四〇メートルから六〇メートルをもぐっているそうで、この深さでも昔の潜水者には想像もつかないものだそうだ。現に彼は潜水病に冒されていて、もう二度と海にもぐることはできない。あまり美的なものに関心を抱きそうにもない彼が、海底のことを私に訊かれると、「そりゃ美しいですよ。そりゃあ」と、口調まで変えて讃えたものだったが。