2/4「アフリカ沖にマグロを追う - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から

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2/4「アフリカ沖にマグロを追う - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から

私たちはヴェルデ岬諸島の周囲からカナリア諸島にかけ十六回の漁をしたが、北の方にはビンチョウが多い。これは長い胸ビレを横にぴんとはったところが似ているところからトンボとも呼ばれ、欧米では缶詰用としてもっとも尊ばれるが、サシミには少し臭みがある。メバチはマグロの中で一番大きく二メートル以上のものがいくらもいる。普通のスシ屋でホンマグロなどと称しているのは大抵はこれだ。南に下るとキハダが多くなる。揚がったばかりのキハダの肌は金いろに輝いて実に美しい。大体魚類は死んでから一二分の間はシイラでも何でも実に見事な光沢を放つが、ほんのしばらくでこの脆い光沢は失われてしまう。これらにまじってクロカジキ、メカジキなどのカジキ類があがってくる。『老人と海』の映画でおなじみの長いヤリ状のクチバシを持った奴で、これが海中から空中へ躍りあがるさまは壮絶だ。この辺のカジキは太平洋のものに比べ勢いがないそうで、揚げられたときにはすでに死んでいるのも多かったが、一度だけ素晴らしい光景を見た。そいつはかなり遠くの海面に姿を現わし、幾度も黒く輝く長大な全身をシブキと共に空中にさらして垂直にとびあがってみせた。こういち巨大な奴はワイヤーをかけてひきずりあげる。甲板にあげるとクチバシをすぐに鋸で切り落してしまう。ひきあげる際に跳ねおどったカジキのクチバシに刺されて死んだ漁夫もあるのである。今回の操業中一番大きかったのは三メートル二十のクロカワカジキでおよそ七十貫あったが、甲板員の一人の話では、彼の乗っていた漁船では百四十貫のカジキをあげたことがあるという。このときは幹縄が獲物の重みで沈んでしまい浮子のビンダマが幾つも割れた。
サメもいくらでもかかってくる。舷側にひきよせられると、こいつにはマブタがあって、実にうらめしそうな目つきでぱちりと目ばたきをする。サメを一々引きあげていては始末に困るから、この船ではひきよせておいて口元で糸を切ってしまう。すると不気味な青白い腹をくねらし、小憎らしいほど悠然と泳ぎ去る。ちょっとやそっと切り裂いても死にそうにない面がまえだ。自分で暴れて縄にからまった奴は仕方ないからひきあげて頭を斧で叩き切る。胴体はなおくねりまわるからズタズタに切り裂く。それでも肉片はピクピク動いているし、心臓はひとりで長いことモコモコと脈打っている。およそ原始的な生命力なのである。
船乗りの間ではサメは伝説的な存在になっているが、これも無理はないので、せっかくの獲物のマグロもその一二割は、むざんに胴体を喰いちぎられたり、頭だけになっていたりする。そのいずれもが傷口は実に汚ならしく、いかにも残忍にかぶりついてふりまわして引きちぎったという感じだ。さらに彼らの姿態そのものが、柔軟な腹部のその青白さが、原始的な恐怖と憎悪をさそうことは充分に首肯できる。
夜、船がエンジンをとめて大洋のただ中に漂泊しているときほど、海の測りがたい広漠さが身近に迫ってくることはない。暗いうねりが静かに船体をゆらし、舷側はかすかにピチャピチャいう音を立てている。甲板を照らすサーチライトが海面にも及んでいるので、うす褐色のイカが集まってきて暗い海中を漂ってゆく。ときにはピュッと水を噴射してすばやく逃げる。小さなトビウオが海面をはねる。さらにサメの不気味なかげが二つ三つと光のとどかぬ海中にうごめく。その青白い腹部がくねるさまはまるで幽鬼のようだ。トビウオを餌に太い糸をたらすと、この貪欲な海の狼はわけもなくかぶりついてきて引上げられる。船員はマグロのように彼らをなぐりはしない。その代り憎しみをこめてズタズタに切り裂き、海に捨ててしまう。そのあとにも、特有な生臭い臭気はいつまでも甲板にこびりついて容易にとれない。 
『青い大陸』のフォルコ・クィリチによれば、このふてぶてしい海のギャングも、砂糖水を飲ませればコロリと死ぬという。彼らは手近にあった砂糖入りの紅茶で実験して成功した。これは面白いからぜひ試してみようと思ったが、帰途紅海で漁をするときでもいいだろうとノンキにかまえていて遂に機会を失ってしまった。一メートルもない手頃なネコザメが釣れたときも、なにしろ操業中は戦場のような忙しさで、砂糖水を作るまで待っていてくれとはとても言えないのである。紅海では非常な不漁で、折角砂糖水を用意して待っていると一匹も釣れず、幾匹もかかる日は準備ができていないというふうで結局やらずにしまった。しかしみんなが伝え聞いて、サメがかかると、
「ドクター、砂糖水!」とどなる。
なかには間違えて聞いた連中がおり、「サメだあ。それ、コーヒー、コーヒー」
船長苦笑して、「なんだ、今度はコーヒーか。だんだんサメも贅沢になってきやがったな」