「枇杷の花 - 永井荷風」岩波文庫 日本近代随筆選1 から

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枇杷の花 - 永井荷風岩波文庫 日本近代随筆選1 から

顔を洗う水のつめたさが、一朝ごとに身に沁みて、いよいよつめたくなって来る頃である。昼過に何か少し取込んだ用でもしていると日の短くなったことが際立って思い知らされるころである。暦わ見て俄にその年の残った日数[ひかず]をかぞえて見たりするころである。菊の花は既に萎れ山茶花も大方は散って、曇った日の夕方など、急に吹起る風の音がいかにも木枯らしく思われてくる頃である。梢に高く一つ二つ取り残された柿の実も乾きしなびて、霜に染ったその葉さえ大抵は落ちてしまうころである。百舌[もず]や鵯[ひよどり]の声、藪鶯[やぶうぐいす]の笹啼[ささなき]ももうめずらしくはない。この時節に枇杷の花がさく。
枇杷の花は純白ではない。その大[おおき]さもその色も麦の粒でも寄せたように、枝の先に叢生[そうせい]する大きな葉の間に咲くので、遠くから見ると、蕾とも木の芽とも見分けがつかないほど、目に立たない花である。八ツ手の花より更に見栄えのしない花である。
わたくしの家の塀際に一株の枇杷がある。
大正九年庚申[こうしん]の五月末、築地から引越して来た時であった。台所の窓の下に、いかなる木、いかなる草の芽ばえともわからぬものが二、三本、芥[ごみ]を掃寄せた湿った土の中から生えているのを見た。わけもなく可憐な心地がしたので、あまり人の歩かないような、そして日当りのよさそうな処を択[えら]んで、わたくしはその芽ばえを移し植えた。一本の芽はしばらくして枯れてしまったが、他の一本の芽は梅らしく、又残りの一本は枇杷であることが、その葉とその枝との形から明らかになったのは二、三年過ぎてからのことであった。以前この家に住んでいた人が、青梅や枇杷の実を食べて何心なくその核[たね]を台処の窓から外へ捨てたものであろう。わたくしには兎に角卜居[ぼくきょ]の紀念になるので、年々その伸び行くのを見て娯[たの]しみとしていた。
大正十二年、震災のあった年の秋、梅の若木はその時分俄に多くなった人の出入に、いつか踏み折られたまま枯れてしまったが、枇杷の芽は梅よりも伸びるのが早く、その時既に三、四尺の高さになっていた。然し震災の年から今年に至るまで月日は数えると十二年を過ぎている。わたくしは年と共にいつかこの木の事をも忘れていたが、今年梅雨の晴れた頃の、ある日である。肩骨木[かなめ]や檜などを植込んだ板塀に沿うて、ふと枇杷の実の黄いろく熟しているのを見付て、今更のようにまたしても月日のたつ事の早いのに驚いた。
枇杷の実はわたくしが始めて心づいたその翌日[あくるひ]には、早くも一粒をも残さず、近処の蝉取りに歩く子供等のぬすみ[難漢字]去るところとなった。夏は去って蝉は死し、秋は尽きて虫の声も絶え、そして忽ち落葉の冬が来た。わたくしは初めて心を留めて枇杷の枝に色なき花のさき出るのを眺め、そして再びその実の熟する来年のことを予想した。今年も今は既に十一月の末になっている。
わたくしは枇杷の花を見ると共に、ふと鳥居甲斐守の逸事を憶[おも]い出した。鳥居甲斐守は老中水野越州天保改革の時、江戸町奉行の職に在り、一世[せい]の怨を買って、酷吏と称された人である。名は燿三[よいぞう]、諱[いみな]は忠輝[ただあき]、号をばん[難漢字]庵といい、祭酒林述斎の第二子である。弘化二年十月罪を獲て改易となり、その身は讃州丸亀の領主京極氏の藩中に禁固せられた。時にその年五十歳であった。歳月は匆々[そうそう]として過ること二十五年、明治戊辰の年となって、徳川氏は大政を奉還したので、丸亀藩では幕府の罪人を預って之を監視する義務がなくなった所から、甲斐守の罪を許して江戸に放還しようとした。然るに甲斐守は頑として之を聴かず、おのれは徳川氏の臣にして罪を幕府に獲たのである。幕府より赦免の命を受くるに非らざれば私[わたくし]に配所を去るわけにはゆかないと言った。丸亀藩では処置に窮し、新政府に申請して鳥居甲斐守放還の命を発した。ここに於て甲斐守は新に静岡の藩主となった徳川氏の許に赴き自ら赦免を請うた後、飄然[ひょうぜん]として東京にさまよい来ったと云う。
甲斐守が初め弘化二年の冬丸亀の配所に幽閉せられた時、たまたま枇杷の実を食しその核を窓の外に捨てたことがあったが、二十五年を過ぎて、その将[まさ]に静岡へ赴こうとする時、枇杷の核は見上るばかりの大木となっていた。甲斐守は之を指[ゆびさ]し藩中の士を顧みて、この木はわが幽閉の紀念である。今は用なければ伐って薪木にでもせられたがよいと言って笑ったそうである。わたくしは曽[かつ]てこの逸事を角田音吉氏が水野越前守と題した活版本について見たのである。
わたくしは史家ではない。古今の事蹟を鑑み人物の成敗を評論せんと欲するものではない。併したまたまわが陋屋[ろうおく]の庭に枇杷の核の生育して巨木となったのを目前に見る時、歳月の経過を顧み、いかに甚しく時勢の変転したかを思わずには居られない。
わたくしが亡友井上唖々子[ああし]と相携えて散策の途次、始めてこの陋屋の門を叩いたのは大正八年の秋も暮れ行く頃であった。最初、時事新報の紙上に出ていた売宅の広告を見て、道を人に問いながら飯倉八幡宮の裏手から我善坊ケ谷の小径[こみち]を歩み、崖道を上って市兵衛町の通へ出たのである。山形ホテルの門内に軍服らしいものを着た外国人が大勢立話をしているのを見て、何事かと立ち止って様子をきくと、このホテルはチェコ・スロバキア義勇軍の士官に貸切りになっているとの事であった。崖の上から見下す箪笥町の窪地には樹木の間にところどころ茅葺屋根が見えた。市兵衛町の表通には黄昏に近い頃なのに車も通らなければ人影も見えず、夕月が路端[みちばた]に聳[そび]えた老樹の梢にかかっているばかりであった。わたくしはこの夕月を仰ぎ見て道の赴く方向を推知し、再び飯倉八幡宮を目標[めあて]にしながら電車通へ出たのであった。
そのころ愛宕山の麓には仏蘭西航空団とかいた立札が出してあったが、飛行機はまだ今日の如く頻繁に空を走ってはいなかった。霊南坂を登る時、米国大使館の塀外を過ぎても、その頃には深夜立番している巡査の姿を見るようなことはなかった。震災後銀座通に再び柳が植えられた頃から、時勢は急変して、妓家[ぎか]酒亭の主人までが代議士の候補に立つような滑稽な話は聞きたくも聞かれなくなったが、その代りカフェ-の店先にも折々鎧[よろい]をきた武者人形が飾られ、骨董屋の立売広告にも「珍品の砲列を布き廉売の商策を回[めぐら]す」などいう文字を見るようになった。
わたくしは日常見聞する世間の出来事を記載することを好んでいる。然しながら之に就いて是非の議論を試ることを欲しない。わたくしの思想と趣味とはあまりに遠く、過去の廃滅した時代に属していることを自ら知っているが故である.....。
陋屋の庭には野菊の花も既に萎れた後、色もなき枇杷の花の咲くのを眺め、わたくしは相も変らず「羇鳥恋旧林 池魚思故淵 ー 羇鳥[きちょう]は旧林を恋い、池魚は故淵を思う」というような古い詩を読み返している。斯[か]くの如くしてわたくしの身は草木の如く徒[いたずら]に老い朽ちて行くのである。