「焼跡闇市派 - 野坂昭如」中公文庫 風狂の思想 から

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「焼跡闇市派 - 野坂昭如」中公文庫 風狂の思想 から

江戸っ子気質とか、贅六かたぎというものはたしかにあるようで、たとえば、小説家でみると、東京出身あるいは育ちの方は、まず闇市や焼跡をあまり書いていない。もちろん有馬頼義氏、吉行淳之介氏にすぐれたその作品はあるし、また一色次郎氏に「東京空襲」のくわしい記録や、徳川夢声氏の日記に空襲、焼跡の描写はみえるけれど、とても関西勢の開高健小田実小松左京氏やそれからその驥尾[きび]に付して、小生などの、しつこく戦争末期をえがく執念はうかがえない。
空襲の頃、いちばん消火活動に熱心に行うのは名古屋市民で、これは、持家が多いせいで、神戸や大阪は、借家住いいだから、最後まで家を死守する気はなくて、あっさり逃げ出す、まことにけしからんと、お偉方の新聞で怒っていたのを覚えている。東京がどんな具合だったか知らないし、持家借家の差など、実はないので、はじめて空襲を受けた地域は、それまでの訓練が、焼夷弾なにするものぞだったから、その気になって立ち向い、余計な犠牲者を出したのだ。この責任は誰がとるのか、嘘っぱち教えた奴は誰だ。
一度、火の洗礼を浴び、あるいは焼跡の状態つぶさにながめれば、命あっての物種で、消火活動などする気にはなれない。東京人は、江戸時代から、あきらめのよさというか、また、火事と喧嘩は江戸の華ふうに、この空襲も天変地異、運がわるかったとあきらめて、あまり恨みをいだかなかったのだろう。あるいは、焼跡の具合や、そこにごろごろころがっていた死体など、くわしく描写したりするのに、なにか気はずかしさがあるのかもしれない。
たしかに、生粋の東京人の、標準語とはまるでちがう、耳に快い言葉をきいていると、つくづく自分が野暮で、恥知らずなような気のしてくることがあり、徳川様のおひざもとで、長年培った伝統というものは、頑固に生きているのだろう。人見知りをする、あまり家族のあれこれについて語りたがらぬ、苦労噺など野暮の骨頂で、義理人情にあつく、なんでも遊びにしてしまうし、権勢ぶった存在をきらい、じごくあっさりしていて、女々しく恨みをいだくことがない。几帳面で、つきあいにめりはりがあってと、思いつくままならべても、贅六である小生とは、まさにことなっている。
ぼくは、そう小説家の方とのつきあいはないから、また、失礼で質問できやしないけれど、なぜ東京生れが焼跡闇市を書かないのか、不思議に感じることがある。たとえば、高井有一氏に『少年たちの戦場』があり、葉山修平氏に『終らざる時の証しに』があって、学童疎開、勤労動員に題材をとったすぐれた作品だが、同じように、関東戦災小説があっていいと思うのだけれど、まず新しくはあらわれない。これは、名古屋、九州でも同じであって、特に関西人はしぶとい性質というか執念深いのであろうか。そして、これは関係ないのだけれど、全共闘諸氏の、特に活動的な方の大阪出身、神戸生れはずい分多い。偶然なのかもしれないが、半分以上関西弁あるいは九州弁をしゃべっているような感じで、なんとなく明治維新がまだつづいているように思えてくる。関西には、いまだに、関東特に東京に対する怨念があるのだろうか。東京人は完成された町人社会の中に長く暮すうち、怨念などというものを、きれいさっぱり洗いながし、きわめてしゃれた、それこそ文化人になってしまったのだろうか。
日本なんて、せまい国でも、みているとおもしろいもので、ある時期、小説家でいうと、関西に水上勉黒岩重吾司馬遼太郎開高健小田実小松左京と、きびすを接してあらわれ、そうかと思うと、中国地方をとばして、松本清張井上光晴川上宗薫宇能鴻一郎五木寛之後藤明生佐木隆三泉大八氏が、九州に櫛の歯ひく如くに登場し、そして九州出身の方々と話をしていると、おそろしくボルテージが高いのだ。宇能は酔ってカンツォーネを唄い、後藤はうむことなく軍歌をさけびつづけ、佐木の炭鉱節たるや、まさに家鳴り震動する。大阪方の特徴をいえば、少なくとも昭和生れの連中にかぎって、早口だったり大声だったり、そして、いずれもたいへんに柄の悪い浪花訛りを駆使する。東京人には、あまりこういった特徴がない。星新一氏はいかにもおっとりしているし、同じ株屋だって、これが北浜だと、まあミもフタもない「もうかりまっか」になるだろうに、池波さんの生活は、しごく優雅にみえ、食うための片手間かせぎといったゆとりがうかがえるのだ。
サラリーマンの、サラリーマンとしての生活に、ほとんどお国ぶりの残る余地はないだろうし、これだけ都市に人口が集中してくると、大阪周辺の団地などは、標準語が、その意味通りに用いられている。つまり、九州、北海道、東北、新潟、それに地元の人たちがここにほぼ同数住むから、お互いの会話など、とてもお国訛りでは通用せず、みなTVで聞きかじった標準語を、あたかも以前の、国際会議におけるフランス語のように使っている。
ここの世界をえがこうと思ったら、実に会話に困るので、大阪だからと、「そやさかい」「うちとこ」「してくれへんか」など使えば、たちまち嘘になる。表では標準語、家庭ではお国訛り、さらに子供は学校へいくと大阪弁をつかっている。まあ、こんな風にして、言語の統一化がなされるのだろうけれど、いずれにしても、お国ぶりのうすくなっている時に、偏見かもしれないが、小説家には、かなりそれが残っているように思えます。
二十四年前の今頃から、空襲はますます盛んになってきて、これから八月十五日まで、肉親の二十五回忌を迎える方は、ずい分いるはずなのだが、まさに四分の一世紀をすぎて、空襲は過去のものとなりつつある、だが、ぼくはいまだに忘れられなくて、いったい、おれは誰に文句いえばいいのかと、よく考える。源田実氏が、アメリカでさんざんな目にあったらしい。そして日本は、広島、長崎原爆、及び各都市絨毯爆撃の指令者、カーチス・ルメイに、勲一等をおくっているけれど、フランクといわれるアメリカだって、真珠湾は忘れていないのだ。江戸っ子の、さつきの鯉の吹き流しの、よさは十分にみとめながら、戦死者や、戦災で死んだ人のことや、または一朝にして焼きつくされた財産へのうらみは、しぶとく持っていた方がよろしいのではないかと思う。ぼくは戦災記念館をつくって、恨みを千載に残したいのだが、どなたか、御賛同の方はいらっしゃいませんか。