(巻二十三)囀やどんな鳥かとみな仰ぎ(深見けんじ)

f:id:nprtheeconomistworld:20191101072415j:plain


10月31日木曜日

地下鉄

普段、綾瀬折り返し始発電車を利用しているが、今朝は故障で出発まで30分ほど発車見合わせとなりました。
あんまり会社に行きたい気分ではなかったのでシルバーシートでゆっくりとくつろいだ。

*事故に慣れ待つに慣れたる春の夕(野村絢子)

パソコン

何だかんだ云って兎に角今日で一年間はお勤めいたした。
長居はどうも宜しくないところだからいつでも辞めるつもりでいないといけないな。
この歳だから次はないかもしれないが、世の中がひっくり返るようなことが無ければ、生活の方はまあいいかである。

問題は成人女性であります。「毎日うちに居られたら病気なっちゃう!」と不快感を明らかにしております。遅かれ早かれいずれはそうなるわけなのですよ。
世の中一般の話でしょうが困った風潮でありますなあ。

囀りの一羽の自在二羽に失す(林亮)

お酒とっくり・おちょこ

木曜日でもありますし、電話会議もこじれずに終わり、勤続一周年でもあり、もつ焼き屋に立ち寄った。
ホッピーをなめながら一年を振り返れば、老化進んだ一年と言える。身体的な衰えはそれほど顕著ではないが心の老け込みが著しいと感じる。具体的にはご時勢に対するなんとない不安が増幅してきた。
そんな訳でぼんやりとした怯えの霧の中でまったく愉しくない日々を過ごした一年間であった。

笑ひ茸食べて笑つてみたきかな(鈴木真砂女)

老人性パラノイアと云う言葉の意味はよく分かりませんが、自分なりには高齢者の陥る漠然とした不安症と思っています。つまり自分では“芥川症”で“老人性パラノイア”を発症した年だと思っています。

四月に結石の除去で三日ほど入院した。経過良好で腎臓の数値は悪いが、今のところはすぐにどうのこうのと云うことはないところで収まっている。その入院した病院の告知に“当院では治療の拒否ができます”とあったのが頭に残っている。今日ではどの病院も治療拒否を認めているのかもしれませんが、あの病院で死なせていただくのも悪くはない。

一切を拒否して毛虫焼かれけり(小池義人)

三木のり平氏は覚悟の飲酒と治療拒否で逝ったそうです。あたしには無理だとはおもいますが、そうもありたいと願うものであります。

地球

このパラノイアの対極にあると思っているのが顔本お散歩クラブにお散歩写真を投稿している御同輩たちです。活発に外に出て、外国にまで出かけて日々を愉しいんでいるご様子です。

まあ人生色々ということですな!

描く撮る詠むそれぞれに秋惜しみ(鷹羽狩行)

本

間に合いました。全文です。筆者-小林のり一氏の筆力にも感服いたしました。


三木のり平-すべての治療を拒否 - 小林のり一[かず](長男・俳優)」文春文庫 見事な死 から

「当面は見舞いに行かないほうがいいな」
九九年の一月、父が末期のがんで「もって三月[みつき]」と医者から聞かされたとき、まず思ったのはそのことです。当時の僕は十年もの間、父と絶縁状態にありましたから、なまじ僕が見舞ったりすると、父が「俺はそんなに悪いのか」と勘ぐってしまうかもしれない。そんな変な心配をしなくてはならないくらい、僕と父の親子関係は距離のある、厄介なものだったんです。
僕にとって三木のり平は愛してやまない日本一の喜劇役者でしたが、家庭での父、田沼則子[ただし]という父親は複雑怪奇にひねくれていて、屈託が服を着ているような近寄りがたい存在でした。普通の会話が出来なくて家族団らんが苦手という人ですから、家族だけでいると間がもたない。僕は父が家にいるだけで緊張しましたし、小言をいわれるのが怖くてなるべく顔を合わさないようにしていたほど。たまさか機嫌がよくて家族にやさしく接することがあっても、そんな自分が無性に恥ずかしくなるのか、翌日は前日のやさしさを帳消しにするくらい意地悪になる。つまり極度の照れ屋。生きてることそのものが恥ずかしいと思っているような人でした。
でも、だからこそ喜劇役者としての三木のり平は魅力的だったんです。舞台で同じことをやって同じように笑ってもらうのが恥ずかしいから毎日違うことをやる。決して予定調和的な演技をしない。父が出ている劇場を託児所代わりにして育った僕にとって、三木のり平ほど毎日観ても飽きない役者はいませんでした。
そんな父も六十を過ぎると体力の限界を感じるようになったんでしょう、九一年に、早変わりが多くてハードな『雪之丞変化』を最後に喜劇の舞台を引退してからは、たまにテレビドラマでお爺さん役をやるか、舞台の演出をするか新劇の舞台に出るくらいで、仕事を徐々に減らしていきました。その間に母も亡くなり、僕も家を出てしまったので、父は一人で暮らすことになってしまいました。それでも僕は様子を見にいくことすらしませんでした。顔を合わせれば「お前はぶきっちょで駄目だ」とか「いい加減役者やめないよ」とか、ひどい事ばかり言うに決まってましたから。
父が自宅のある四谷近辺の飲み屋を何軒もはしごして無茶飲みしていたのもこの頃だと思います。一人の家に帰りたくないがために飲み続ける、そんな孤独な酒がどれほど身体を蝕んでいっているのか。もうやることはやったから酔いつぶれて死んだっていいと思っていたのかもしれません。父の没後、自宅の部屋におびただしい薬があるのを見つけましたが、病院では父は点滴や投薬のたぐいを一切拒否していました。おかげで危篤状態に陥ったのは「三月[みつき]」という告知を受けてからほんの数日後のことでした。
「今日か明日が峠」という妹からの連絡で僕がおそるおそる見舞いに行った時には、父は僕に小言を言うことすら出来なくてなってたので、父に渡すつもりだった本の一節を読んであげることにしました。そこには、東宝ミュージカルのアチャラカ喜劇、ことに『雲の上団五郎一座』の「玄治店」の場など、父が一番輝いていた昭和三十年代の舞台の様子が描かれていたからです。過去を振り返るのは嫌いな人ではありましたけれど、僕の朗読に耳を傾けながら父はかすかに「うん.....うん」とうなずいていました。もしかすると、父の生涯でもっとも親子の距離が近づいた瞬間だったかもしれません。けれどもそれもつかの間。次第に意識が薄れていって反応がなくなり、父はそのまま静かに息を引き取りました。入院数日の短さといい、点滴の管だらけにならない自然な最期といい、くどいことを嫌う三木のり平らしい“演出”による人生の幕引きでした。