「弁当 - 八代目坂東三津五郎」アンソロジーお弁当 から



 

「弁当 - 八代目坂東三津五郎」アンソロジーお弁当 から

弁当というと今の人は汽車弁、駅弁をすぐ連想するが、私の子供のころは芝居につきものだった。役者の後援会で見物に行くと、「かべすつき」といって菓子と弁当とすしがついている。芝居の時間が長いから一食分の弁当だけでは足りずに、すしがついていたのだ。
芝居には必ず弁当屋が劇場の近くにあって、並弁、上弁、特弁というのを作っていた。劇場で働く者の食べる弁当も、香弁(たくあんと菜っ葉の漬け物だけ)が三銭、食い弁(野菜の煮物と魚のあら煮)八銭、卵焼き弁当十銭、刺し身弁当十五銭、並弁二十五銭、上弁三十銭、特上三重弁当五十銭。
下回りの役者は香弁、食い弁を食べていた。これも上等の方で、それ以下の役者は菜番を食べていた。菜番というのは、幹部の役者からわずかの金を寄付してもらって、それを菜番長になった役者が一日いくらと予算を立てて、それで毎日食事を楽屋で作る。昔は役者の家が劇場に近かったから、幹部の役者の家の残りものなどを
「菜番に持って行っておやり」
内弟子にいうと、魚の頭など楽屋に持って行く。だから、かす汁とか、けんちん汁とかいったものができることもある。
下回りの古手の役者など、若い菜番の見習い役者に
「おい今日の菜番、おいそうなにおいがするぞ。おれのところへ持ってこい。味を見てやる」
なんていって食べていた。そのころは楽屋で獣肉の煮炊きは禁じられていたので、とん汁なんてものはなかったらしい。
楽屋で牛肉を食べたのは市村座では叔父の先代(十三世)勘弥が初めてだった。
父が
「舎弟、楽屋で肉を煮ちゃあいくないよ」
といったら
「だってみんな洋食食べているじゃありませんか。兄さんかまいませんよ」
といったのを覚えている。そのころ洋食弁当というのが神田万世軒というところから出前していた。それを初めて食べた時はうれしかった。食べ物にも身分で決まりがあって、名題役者になると食い弁は食べられない。下回りの役者は食い弁以上の弁当は食べてはいけない。だれかにおごってもらったのはかまわないが、仲間から
「お前食いつけねえものを食べているじゃあないか、だれにゴマをすってせしめたのだ」
とやられるからおちおち食べられない。
私なぞけいこ場などで上等な弁当を食べていると
「ぼち公、うまそうなもの一人で食べないで半分残してこちらによこしな」
なんていうのがいた。けいこ場ではみんな集まっているので弁当も遠方から取り寄せて、うまいものを食べる。いくぶんみえもあったのだろう。神田川のうなぎを食べていたのが、エスカレートして京橋の小満津のうなぎを車夫に取りにやるということもやっていた。父はどんな時でも市村座の時は弁松の弁当、帝劇に出た時は初日から千秋楽まで天金の二重弁当、歌舞伎座の時は天國の天ぷらと竹葉のうなぎを一日おき、明治座の時は花蝶の天ぷらと玉秀の親子どんぶりと決まっていた。
父は食べ物は一つのものがいく日続いても平気というより、枝豆が出たらなくなるまで、そら豆が出ると毎日、それも甘辛に煮たのが三食ともお膳にのっていないと、どうしたのと聞く。まぐろのトロの刺し身が好きで毎日四カ月続いた時には、こちらがまいってしまった。そのおかげで現在でも公害を食べようかなんていいながら私も食べているが、ぶつ切りや厚く切ったものはうれしくない。普通の刺し身のように切って、最後はまぐ茶で食べる。