(巻二十四)八月の大病院の迷路かな(中込誠子)

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12月13日金曜日

お薬がなくなってきたのでマスクして駅前クリニックへ定期検診に出かけた。まだ命が惜しいのだなあ。三木のり平さんのように豪胆にはなれない。

クリニックの前に男の子への特定記録郵便を出すために最寄りの特定郵便局に寄った。
郵便局には9時ちょっと前に着いたので開店まで外で待ったが、後から来た御同輩に“年金ですか?”と尋ねられた。年金であればあんたの後ろに並ぶよという意思表示のようである。“いえ、郵便です。”と答えますと御同輩はシャッターの正面に立った。開店までに他に三人ほどの御同輩が列を作った。
今日は13日であるが金曜日なので年金の支払日なのだろうか?そんな風に気楽に構えていられるのもしっかりとした細君が居てくれるお蔭であります。

年金を木椅子の冷えにたしかめる(松尾火炎樹)

クリニックではFAプロの貢さん風のいつもの先生に診て頂いた。先月の採血の結果を説明してくれましたが、肝臓を含めてそれなりに好調のようです。迷惑にならず金も掛からないならもう少し居てみようか?
でも、常にその時が来ることを意識にもっていなくてはいけない。未練はいけない。

一枚の落葉となりて昏睡す(野見山朱鳥)

*どうしてもこの句になります。

医者からの帰りに公園の脇を通ると保育園児が大勢遊んでおりました。保育士の方々も目配りが大変でしょう。
眺めていてふと“生まれて来たくて生まれて来た人間は一人としていないなあ”なんて思いました。この辺りからはあたしの“罰当たり”の議論になりますが、『河童』の一節は少年の頃に心に残ったなあ。

木枯や目刺にのこる海の色(芥川龍之介)

午後は南へ散歩した。イートインで弁当をつかう御同輩がいた。仕事の都合で遅い昼飯のようである。働いている御同輩を見ると卑下してしまうが、あたしにできることはあんまりないし役立たずであります。

働かぬ手にいただくや雑煮箸(西島麦南)

本

「俳句は石垣のようなもの - 飯田龍太」中公文庫 思い浮ぶこと から

を読みました。前半の上達法三ヶ条は分かりやすいのですが、石垣論はカッコつけすぎと言うか?
一日一句作れ、二句以上作ったら一句までに絞り込めはよい教えです。

《 虚子は「選は創作なり」といったそうだが、なるほどもっともなこと。創作なら作者はあくまで参考にすべきだ。参考に対する敬意の深浅こそ師弟交情の軽重。深く敬するためには、先達の否とした作をより深くこころに蔵して自ら養うがいい。一年養ってなお愛着するものが残る作品なら、それこそ作者自身の作品と断じたい。選は創作という考えのなかには、当然自作を含むべきはずのものである。》

しぐるるやいけるとこまで多作多捨 (潤)